イノセンス
ひさしぶりに見返したが、なんとなく意味がつかめてきた。当時は難解な言葉を並べるだけで、地味な映画だと思った。押井守の趣味につきあわせれたような気分になったものだが、なんとなく読み取れるようになってくると、これはなかなかいい映画なんじゃないかと感じられてくる。
当時はきれいだと感じた画面が、今は一昔前のゲームのムービーシーンのように感じる。
時代が流れる速度に驚くとともに、この映画にはちょうどいいのかもしれないとも思った。この映画はすべてが作り物なのだ。だから画面も作り物、偽物っぽさがあることで、映画としては本物らしく見える。
「イノセンス」は、子どもの穢れなき心が巻き起こす事件を扱っている。
この世界は偽物に満ち溢れていて、登場人物はみな電脳化している。
その中で、事件の原因となる子どもは電脳化されることを恐れた。つまり、完全な人間なのだ。
人間の心というものは、本当に純粋で正しいのだろうか。その問いを、子どもを使って問うたところに、本作の重さがあると思う。
ロボットは人間にはなれない。第一作では中途半端に電脳化された人間が事件を引き起こす。人形遣いという敵が出てきたが、彼・もしくは彼女は、完全に電脳化されていた。プログラムそのものだったのだ。つまり、埴谷雄高のいうところの「虚体」である。「死霊」における「虚体」は、人間が肉体を失って魂だけの存在になることを示していたので、正確には人形遣いは「虚体」ではないのだが。
埴谷雄高につなげるならば、「攻殻」で「ゴースト」と称しているものは、人間の「魂」に近いニュアンスだろう。
人間の心は悪で、電脳化された人間のゴーストは善なのだろうか。
世界中のネットとつながり、大量の外部情報と接触する。
押井守は電脳化が正義だとは思っていない。それは電脳化されたキャラクターは脳をハッキングされるからだ。
「魂」も「ゴースト」も、脆いのだ。自分は大丈夫だと信じていても、あっさりと操られてしまうし、自分が助かろうとして、その結果なにが起こるか考えもしなかったり。
それでも人もアンドロイドも、心のよりどころを持ち、生きていく。
それが押井守が出した答えだと思う。
この世界は本当に電脳につながり、現実とネットの境界はあいまいになった。オフラインで生きることは不可能に近くなってきた。そして、人々は外部記憶を自分の知識のように感じているが、実際には情報をコピーして自分のもののように話しているだけだ。そこが「攻殻機動隊」の世界と違うところで、このシリーズでは義体化のパーセンテージが高い、よりネットと一体化している人間のほうがエリートである。
ネットの情報を拾い上げて、自分の知識のように思うのは勝手だが、本質を考えずに、表面だけをすくい上げるような真似は知能を劣化させるだけなのだ。
https://www.youtube.com/watch?v=Tl-34kvA5uo&t=54s