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ブレードランナー2049

劇場で観て、今回アマプラで観たので二回目の視聴となる。
すばらしい作品だった。

オリジナルの素晴らしさは言うまでもないが、本作はオリジナルの世界観を発展させ、現代的なサイバーパンクに昇華することに成功している。

オリジナルにはフィルム的なよさがあったが、本作はすべてがデジタルになっている印象だ。これは撮影方法の話ではなくて、作品のイメージだ。

デジタルというと、チープなイメージがあるし、実際、オリジナルのもつ凄みを越えていないという印象は否めない。ただ、小生は本作がオリジナルのデジタルコピーだ、とは思えない。オリジナルになくて、本作が達成したもの。それは限界まで突き詰めた洗練だ。

洗練された映像というと、他に小生が思い浮かべるのは、テレンス・マリックやデヴィッド・フィンチャーだ。このあたりから、小生が洗練された映像と言っているもののイメージがわかる人は、わかるかもしれない。

物語は、非常にフィリップ・K・ディック的だ。つまりは、偽物をめぐる物語になっている。もともと、オリジナルも人間かレプリカントか、というところが大きな問題になっていた。

ざっくりいうと、主人公のKは、ブレードランナーで、旧型のレプリカントを処理している。オリジナルで、デッカードは自分が人間であるという前提でレプリカントを処理していたが、Kは自分が新型レプリカントであることを認識している。これは本作が、オリジナルのブレードランナーを踏まえたうえでの、二作目、複製、であることにも通じていておもしろい。

Kは、旧型レプリカントを処理したときに、「お前は奇跡を知らないのだ」と言われる。そして、Kはそこでありえないものを発見する。レプリカントが子どもを産んだ形跡だ。アンドロイドが子どもを産むわけがない。

警察は、その証拠をすべて抹消することにする。そのとき、Kは上司に「お前は魂がなくても大丈夫だ」と言われる。

Kは生まれた子どもを探す。そして、捜査の過程で、その子どもというのは自分だということを確信する。その根拠は、埋め込まれたと思っていた夢が本物だとわかったからだ。記憶の中に出てきた木の馬を手にいれる。これは、オリジナルでガフが折った折り紙のユニコーンと対比している。あのとき、ユニコーンを提示することで、デッカードが実はレプリカントなのではないか、という疑問を提示した。今度は、現実に存在する馬を用いることで、Kが人間であることを示している。

レプリカントだと思っていた自分が、人間だった。ここで偽物から本物への逆転が起こる。物語のちょうど真ん中あたりでこの衝撃が起こる。そこからは、本物である証拠を探す物語に変わる。

物語はこのあとも展開していき、Kは自分が、やはりレプリカントであったという事実を突きつけられる。彼の記憶は、模造記憶ではなく、本物の記憶だった。しかし、その記憶は、他人の記憶だったのだ。木の馬は、Kが人間である暗示ではなく、その記憶の持ち主が人間であることを示していたのだ。

俳優について一言いうと、ジャレッド・レトはすばらしい俳優だ。彼はどんな役でも演じられる。本作では、オリジナルでタイレル博士が演じた役割になるが、その天才性や研究者としての狂気といったものを静かにかもしだすことに成功している。レクエム・フォー・ドリームでの演技がとても印象的だったが、本作もまた小生の好きな演技を見せてくれている。

DUNEはとてもよくできた映画だったが、あらためて本作を観ると、DUNEはエンターテイメントに重点を置きすぎたと感じた。ビルヌーブはやはりアート寄りの映画を撮るべきなのだ。

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