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『短歌研究』2022年4月号(2)

⑧吉川宏志「1970年代短歌史」〈伝統を受け継がず、今の新しさだけを追い求める歌がある。逆に、伝統に安住し、冒険をしない歌の作り方もある。佐佐木(幸綱)は、その二つのどちらにも与(くみ)しない。佐佐木は伝統を受け継ぎつつ〈走る〉という道を選ぶのである。〉
 佐佐木幸綱の評論「人間の声」について。佐佐木の論には熱があるが、それを評する吉川の文もアツい。
〈「生身の自分を越える表現を獲得し得る僥倖を期待する不遜」という(佐佐木の)言葉も興味深い。まずここには、作者の実生活しか歌わない狭いリアリズムへの批判がある。もともと古典和歌では、別の人間に成り代わって歌うことも可能だったのである。近代短歌には、小さな個人に歌を閉じこめてしまった側面もある。だから「生身の自分を越える」には千二百年の伝統を引き受けることが必要なのだ。(…)〉
 古典和歌への新しい視点も与えてくれる文だ。

⑨吉川宏志「1970年代短歌史」〈自分自身もよく分からない内面世界を、他者がより深く、より強く、より大きく感受してくれることによってしか、「生身の自分を越える表現」は生まれてこないのである。佐佐木は「読者が作者と〈共犯関係〉を結ぶ」という言い方もしている。もちろんここには危険性もある。(…)だがそれでも、〈他者への信頼〉がなければ短歌は成立しない詩型なのだ、と佐佐木は主張しているのである。〉
 省略が多く、言いたいことを全部言わない、飛躍が大きい詩型。それでも、「伝わる」という他者への信頼を前提に、自己の内面を投げ出すしかない。
 短歌を始めたばかりの頃、歌会でよく、「説明してはだめ、読者を信頼して飛びなさい」と言われた。個人的には、今それが分かりかけたところかも知れない。そのタイミングで、佐佐木幸綱の文章に、吉川宏志のガイドで再会した気持ちだ。

⑩吉川宏志「1970年代短歌史」「〈他者への信頼〉によって成り立つこの短歌が、形骸としてではなく、真に持続してゆくためには、個人のではない人間の声をわれわれはさがさねばならぬ 佐佐木幸綱」
〈タイトルの「人間の声」の意味に触れている部分である。ポイントは「持続」と「個人のではない」である。歌をあきらめず、歌い続けるためには、今だけを生きる「個人」に埋没するのではなく、長い時間をはらんだ歴史的な主体を立ち上げなければならないと考えたのだ。〉
 佐佐木の文も吉川の文も読んでいると、熱気にあてられたようになる。

⑪吉川宏志「1970年代短歌史」〈言葉とは無意識に生まれてくるものであり、詩歌の場合、作者が必ずしも責任を取らなくてもいいのではないか、という考え方が登場してきた。それは今では常識に属するが、一九七〇年頃に若い世代の中から生まれてきたことを記憶しておきたい。短歌の表現が自由になっていく、大きな時代の変わり目があったのである。〉
 今の常識が遠い過去からずっと常識だったわけではない。しかし、いつ変わり目があったのかを現代から見極めるのは難しい。吉川の文章はそれをまさに掘り起こしている。これは平易なことではない。
 この引用の直前にも〈直感的、感覚的な言葉をそのまま歌の中に表出する。そしてそれを、読者が自由に読むという関係性。現在では当たり前になっているが、当時は斬新な試行だったのだ〉とある。当たり前はいつから当たり前になったのか、その視点が鋭い。「70年代短歌史」、益々目が離せない。

⑫「時評」柳澤美晴〈リスクを負って零を壱にした者にしか見えない景色がある。(…)その試行が余人に理解されなくともいいではないか。我々は他人の眼にどう映るかを気にして「じぶんの観せ方」を決めることはやめ、もっと大胆に詠い、放胆に論じるべきだ。〉
 言い切りがいい。やはり時評なのだから、どう思っているのかをはっきり言い切ってほしい。私個人の意見と合う合わない以前に、柳澤の言い切る姿勢に好感を持つ。現状の分析も時評の大きな役割だが、それだけでは「それで筆者はその現状にどう思ってるの?」と聞きたくなる。
 言い切りの姿勢は措いて、内容面も良かった。「自分の観せ方」で歌の価値が変わるわけではない、そこにとらわれるな、というエールだと受け取った。

⑬「作品季評(予告)」 私が『短歌往来』12月号に書いた連作「火」21首が穂村弘・川野芽生・工藤吉生の3人に取り上げて貰えるようです。とてもうれしいです。『短歌研究』6月号が楽しみ! 

2022.5.12.~13.Twitterより編集再掲