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『うた新聞』2022年8月号

①大辻隆弘「つ」と「ぬ」〈「つ」「ぬ」はともに「完了」を表す助動詞であるが、「つ」は意図的・作為的な形で動作が終わったときに使われ、「ぬ」は意図とは無関係に、物事が自然に終わってしまったときに使われる。この二つの助動詞には、そんな差異があるのだ。〉
 平知盛の「見るべきほどのことは見つ」ですね。この後大辻はその原則に当てはまらない近現代短歌を挙げている。当てはまらないのは〈心情の必然〉があるからだと解説している。とても面白い。

傷つけたいひとをだいたい傷つけて数年後に振り返る計画 平出奔 不思議な印象を残す連作。これは一首目。そんなにたくさん傷つけたい人がいるのだろうか。その人たちを傷つけていき、数年後に振り返るつもりでいる。なにか本人自身がとてつもなく傷ついているように思える。

じゃあ誰がいなくなったらいいんすか 眼差しじゃない声で応えて 平出奔 上句も下句も発話体だ。上句は相手に対して実際に声に出して問いかけており、下句は強い願望だが、心の中の声に思える。上句の挑戦的な口調と辛い内容が、下句の祈りと対照的だ。

④門脇篤史「詠むために」〈知識や経験の蓄積、自己の理解、嗜好の確立などの条件が整って歌が詠めるようになり、ある部分ではそれを燃料にすることで歌ができている。燃料が枯渇すれば詠めなくなる気がする。〉この燃料、というの、分かる。時には自分自身の血肉を燃料にして詠う。

⑤藤田千鶴「山下翔『meal』書評」 きみが何でもわかってくれてゐることを大切に秋の川辺を歩く 山下翔〈幸せそうな歌だ。でも、なにか不安の影を感じてしまうのは、「大切に」という一語に因る。まるでこの幸せな時間が期間限定であるかのように愛しんでいる。〉

正月にもどる家なきいくたりと興奮をしてすき焼き食べつ 山下翔〈誰かと食べている歌は、楽しそうだけれど、その楽しい時間を充分に噛みしめ、味わおうとする心が見える。本当に百パーセント浸っていたら、わざわざ「興奮をして」と言葉にしないだろう。〉

 藤田のこの書評を読んで『meal』への理解が深まったと思う。楽しい時、楽しさに浸るのではなく、貪欲に味わい尽くそうとする、そのどこか満たされない心は、この歌集にたくさんある飲食の歌に何度も表されている。

2022.9.4.~5.Twitterより編集再掲