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『塔』2022年9月号

脱ぎ散らすといふ華やぎ見せながらほどけてゆけり黄のチューリップ 栗木京子 黄のチューリップが散っていく様子を詠んだ歌。一枚一枚と花びらを散らしながら華やかにほどけてゆく。ちょっと色っぽい感じ。花にそう見せたい意志があるような。

②魚谷真梨子「子育ての窓」〈けれど、子育てはそうもいかない。(…)「お風呂に入ろう」は毎日断られる。自分ではない存在が、思い通りにいかないのは当たり前のことなのだけれど、でも、そこに苦しんだりもがいたりしている親はたくさんいると思う。〉毎月この連載を読んで共感。子供は自然そのもの、最も思い通りにならないもの、という今月のこの文はもう、子育てをしていた頃の私に聞かせたい。そう思っていてもやはり親の思い通りに毎日を過ごそうとして辛くなってしまうのだろうな。~時までに寝かせなきゃ、とか必死だったなあ。

川なんだ わたしときみが立つ場所はむこう岸へと渡ったあとも 落合優子 初句の言い切りが強い。立つ場所が川、むこう岸へ渡る、どちらも実景のようでも喩のようでもある。ふたりは足元を水に浸して立っている。向こう岸に辿り着いても、不安定な場所にいることに変わりはないのだ。

きてゐるよゐるのよここよ鳥のこゑで呼ぶこゑのする二階の窓に 俵田ミツル 二階の窓から鳥の声がする。それは誰かが鳥の声を借りて今来ていることを伝えているようだ。最近この世を去った人かも知れない。初句二句が柔らかい音の繰り返しで、鳥の声を意味あるオノマトペにしている。

戦場も美しく撮るしかなくてカメラマンは瓦礫に肘をつく 鈴木晴香 芸術を追求する者の業のようなもの。どんな悲惨な場面も美しく撮ろうとしてしまう。それは一般的な美しさとは違って、作品としての完成度への本人のこだわりのようなものかもしれない。全ての芸術に言えることだろう。

灯台へのぼりゆく路にせりだして紫陽花のはなの淡く雨の色 徳重龍哉 絵のような一首、と言っても「雨の色」が何色かは絵では具体的に表現しなければいけない。言葉だからこそ「雨の色」がそれぞれの読者の中で膨らむことができる。あじさい、あわく、あめ、あ音の繋がりも柔らかい。

死ののちもここに立ちたい咲く花のにほひも冷えてゐるやうな庭 祐徳美惠子 今、庭に立って思う、死んだ後もここに立ちたい、と。花はまだ咲いているが、少しずつ朝夕が冷えてくる季節だろうか。まるで今が死の後のような静けさを感じる。

雨傘を差し出されるより小走りで一緒に風邪を引いてほしいな 姉川司 雨なのに傘が無い主体。傘を差し出されるより、雨の中を一緒に小走りで走り抜けて欲しい。その結果、一緒に風邪を引いてほしい。通常の親切より、テンションの高い同調行動を望む。「ほしいな」の口調も魅力。

手鏡を貸してください今ここにわたしのためのみずうみが要る 田村穂隆 みずうみは心の平静さの喩だろうか。あるいは心の中の澄んだ部分。それをさらに手鏡に喩える。手鏡は小さな湖。そして相手はそれを持っている。今、ここに、湖が手鏡が要る。少しの間だけ貸してほしいと切望する。

前足でわが手を押さへくる猫よ どこへも行かぬ、おまへのわたし 三好くに子 主体がどこかへ行ってしまうと思ってか、猫が前足で手を押さえてくる。どこへも行かないよ、私はお前のものだから。静かで優しいひと時を描く。お互いの孤独感に共鳴する、とても寂しい歌でもある。

抱きしめてやれば治まる癇癪とわかっていたが、そうしなかった 吉田典 幼い子が癇癪を起して暴れた。たしなめたり、叱ったり、放置したり。何らかの手段を取った。しかし心の底では抱きしめてやれば治まると知っていた。主体の心に何らかの抵抗がありそうしなかった。「、」が重い。

幸せとう花言葉あるクチナシに触れてフェイクと気付いてしまう 松本志李 飾られていた花だろうか、「幸せ」という花言葉を思いながらクチナシの花に触れると、それが生花ではなく造花だと気付いた。その時、「幸せ」という言葉そのものもフェイクのような気持ちになったのではないか。

降りてくる天使を待っているだけの雨の露台に居ろよ六月 空岡邦昻 六月の雨を背景に、天使が降りてくる、つまり幸運が訪れるのだけを待っている人物が露台に居る、と取った。そのままそこに居ろよ、でも降ってくるのは雨だけで天使が来ることはないからな。映画の一コマのような一首。

2022.10.17.~22.Twitterより編集再掲