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河野裕子『桜森』18

猫や鶏寡黙に愛しゐし幼女期は昼も裏藪に火が見えてゐし 不思議な歌。自分の幼女期を回想している。家で飼っていた猫や鶏を愛していた寡黙な幼女だった頃、裏の藪に火が燃えているのが昼間でも見えたというのだ。超常現象のような、それでいて「寡黙」の一語でどこか納得できる歌。

狂ほしく突如かき抱くわが癖(へき)も吾子なれば疑はず二人子育つ 突然、狂おしく、子供をかき抱く。もしよその子が母親にされたらびっくりするぐらいの激しさで。しかし吾子たちは主体のこんな癖に慣れているから、何も疑わずその抱擁を受け入れる。心が子供に救われている。

そこかしこあかあかとせるひのくれに子らは爆じけてじつとしてをれぬ 夕焼けがあちこちに映って景色があかあかと見える。そんな日暮れに子供たちの元気が爆発して、じっとしていられず大騒ぎする。「爆」の字に尋常ならざる子供の生命力が感じられる。陽気を突き抜けて危うい程の。

しらかみに大き楕円を描きし子は楕円に入りてひとり遊びす 大きな白い紙を与えられた子は自分の身体より大きな楕円を描き、その中に入って何やら一人で遊んでいる。夢中になって周囲を忘れてしまっている子。今、子の宇宙はこの楕円なのだ。かつて子供だった誰もが分かる感覚。

河野裕子第三歌集『桜森』一首評終了。まだまだ引きたい歌はある。この歌集の評をして思ったことは河野の歌はやはり連作単位、歌集単位で読みたいということ。『桜森』には、一首で引かれて河野の代表作として扱われている歌がいくつかあるが、一首だけでは河野の心情に踏み込めない歌もある。 
 連作で読めば、河野の心の不安や、寂しさ、内面の繊細さがすぐに分かる。今までの、河野の歌の引用の仕方に偏りがあるのだ。河野の歌をアンソロジーだけで読んで、「元気に子育てするお母さん」みたいなイメージを持っている人は、全然違うので、ぜひ歌集単位で読んで欲しいと思う。

2022.6.25.Twitterより編集再掲