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『歌壇』2022年8月号

①山崎聡子「時評 身体という乗り物」身体しか根拠がなくて心しか大事じゃなくて 水仙の花 田村穂隆〈これらの歌が示すように、本歌集は心と身体の乖離について、肉体の生々しい実存と格闘するなかで救いを見出し、自らの意思で「生まれ直そうとする」営みでもある。〉
 本歌集というのは田村穂隆『湖とファルセット』。他にも著者は身体と心が乖離し、それを自明としたような歌を幾つか挙げている。そして最後の部分に〈一方で、心の乗り物である身体は確かに存在し、何らかの形で心までをも浸食して言葉にも影響を与えてくる。〉としている。
 個人的にはこの最後の部分に共鳴するのだが、心と身体が乖離している、身体は心の乗り物である、という感じ方は、歌を読む上で一つのヒントになるだろう。他者の歌を読む時にいつも思い出すようにしたいと思った。

②川野里子×宮下規久朗(美術史家)「ことば見聞録」
 宮下〈中世は、和歌とか文学を嗜む人たちには共通の教養があった。(…)近代は気分だけで行ってしまうから、共通の古典の教養が前提となっていないんじゃないかな。〉この〈気分〉は今回の対談で近代を表すキーワードだ。
 宮下〈日本のマスメディアのウクライナの報道は、(…)同情を誘うようなものばかりです。その根本の原因がどうなのか、どうしたら解決できるのかはあまり出てこない。突き詰めて考えられないのです。〉ウクライナ報道に限ったことではないだろう。戦争に限ったことでもない。理性より感情、気分。

③「ことば見聞録」 宮下規久朗〈宗教上もウクライナ教会とロシア教会はいちおう分離している。同じギリシャ正教の中でも違う教会になってますから、分かり会えないのです。〉そうなのか。細かいことが分かっていなかった。ギリシャ正教で同じだと思っていた。

④「ことば見聞録」 宮下規久朗〈日本は絶対、無宗教ではない。日本には無神論者は少ないといわれています。つまり何かの神様はいると思うけど、それは確固とした一神教の絶対神ではない。アニミズム的に、どこにでも神様がいるという、(…)宗教の持つ厳しさがない。〉
 これにはかなり納得する。自分のことを無宗教だとか無神論者とか言う人がいるけど、微妙に違う感じがする。私自身、年をとると共にこの宮下の意見に近くなってきた。

⑤「ことば見聞録」 川野里子〈日本人は信者でなくても、詩の中に聖書という古典を本歌取りするようなかたちでの摂取をよくやります。〉宮下規久朗〈ちゃんと聖書を読み込んで、その本質をつかんでいるかというとそうではなくて、理解が表面的な気がする。西洋のファッションに近い。〉
 これは耳に痛い発言だ。私個人も西洋文学と同じ感覚で聖書を捉えていた。もっと敏感にならないといけないと思ったことも何度かある。

⑥「ことば見聞録」 宮下規久朗〈僕がこの本(『刺青とヌードの美術史』)で言いたかったのは、「霊と肉の二元論は日本にはない」ということ。精神と肉体、これは西洋の考え方です。「身(しん)」、「一身上の都合」といって、体だけではなくて、その人全体を指すことばです。〉
 これすごい重要な話だと思う。古来から日本でも精神と肉体は意識されていたのだと思っていたが、近代の概念なんだな。この後の対談で、日本の近代が西洋の文化の基礎を誤解したまま摂取した話になっている。とても興味深い。

⑦「ことば見聞録」川野里子〈日本人て空間に弱い気がします。目の前の典型には注目しますし、記号化された月とか松とか小舟などを描きますが。〉
宮下規久朗〈風景の発見が近代になって大きくおこった。それまでの山水画は理想郷を描くようなものですよ。江戸時代にも真景図というのがあったのですが、歌枕とか名所にとどまっているのです。だから、目の前の自然の美とか、そういうのを詠んだ歌もあまりないでしょ。リアリズム以前は。〉絵と歌の考え方がリンクしている。余白の美はあるが、空間把握が苦手という話もあり面白かった。

⑧「ことば見聞録」宮下規久朗〈現在要請してい昔の何かを都合に合わせて引っ張ってきたのを「伝統」と言っているだけで、脈々と受け継がれるということはないのですね。必ず途切れている。だから「すべての伝統は捏造である」と言えるわけです。〉和歌の「伝統」もそうだ。

 短歌にも造詣の深い宮下規久朗の話、面白かった。江戸時代の絵画と和歌の関係ももっと知りたいと思った。

2022.8.16.~19.Twitterより編集再掲