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『歌壇』2022年12月号

八橋に匂ふかきつばた見に行かむと梅雨降ればいひき見ざるまま死なす 島田修三 五八六八八。初句~四句の主語が相手。結句の主語は主体だ。つゆ雨が降る度にかきつばたを見に行こうと言っていた相手、おそらくは妻。見ないまま、妻を死なせてしまった。嘆息のような一首。
 背景に在原業平が八橋のかきつばたを見て詠んだ「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ」が通奏低音のように響いている。どちらも妻を思う歌だ。三句六音なところも元の歌に通じるところがある。

癒えることなき病いであろう人間に民族という蜃気楼あり 三枝昻之 民族は病いだと上句で言い、下句で蜃気楼と言っている。そのために命をかけ、戦争も辞さない、民族という概念。その蜃気楼に囚われている限り、二十一世紀も戦争の世紀となる危険性を抱えているのだ。

③特集「短歌における奥行きとは」山田富士郎〈一字空けは、今や日本全国津々浦々に広まった。やっている人にそんな意識はないのだろうが、自分の歌は完全にコントロールできるという全能感がそこにはないのだろうか。〉一字空けは最近あまり問題にならないが、山田はかなり批判的だ。
 全能感、という言葉を面白く感じた。確かに、こう読んでください、という指示が強く感じられる技法ではある。私は自分ではほとんど、動詞の終止形が名詞に続く時に、連体形と間違われないように一字空けにすることが多いと思う。間違われなさそうなら空けない。
 ということは私の中で、無意識に一字空けは避けるべきという気持ちがあるということだな。そういう消極的な使い方の話ではなく、意識的に技法として使う時のことを山田は言っているのだと思う。あんまり意識していなかった一字空けについてこれからは注意しながら読んでみようと思う。

弔意とは要請できるものなのか要請しないとやさしく声は 大口玲子 安倍元首相の逝去に対して弔意を求められた。それに対して上句のように問う主体。返答はやさしい言い方で要請しません、と。しかしそう言いながら雰囲気では求めているのだろう。ここに突っ込むのが大口ならでは。

⑤川本千栄「年間時評 歌集が本屋で売られるということ」〈閉じられた輪の中でのみ流通してきた歌集歌書にここ数年変化が起こっている。歌集歌書が本屋で売られるようになってきたのだ。…短歌の世界に属していない、一般の読者が偶然の出会いとして歌集を手に取る可能性が高まった〉
 『歌壇』誌で「年間時評」を書かせていただきました。大役を任せてもらい、とても光栄です。短歌の流通と寄贈文化について書きました。お読みいただければ幸いです。寄贈文化については引き続き考察していきたい。
 今年印象に残った歌集を7冊挙げました。『輪をつくる』『meal』『老人ホームで死ぬほどモテたい』『湖とファルセット』『雪岱が描いた夜』『牧野植物園』『おかえり、いってらっしゃい』です。ぜひお読みください。

⑥大松達知「今年印象に残った歌集」
待ち合わせのスタバの窓に髪結び子は書類など作りておりぬ 前田康子『おかえり、いってらっしゃい』〈普遍的な感情であるけれど、夜行バス、スタバなど、時代と場面が更新されて新しい表現となってゆく。なんど繰り返し詠まれてても、その個人の気持ちは初めてなのだ。〉子どもを思う前田の歌についての評が心に残った。特に最後の部分。人生上の出来事にはそんなに違いは無くても、個人としてはいつも初めての経験なのだ。短歌を詠む初心に戻れる評だ。

⑦谷岡亜紀「鑑賞佐佐木幸綱」
未だ地の動かざる世に研(みが)かれしまろみやさしき凸レンズかな 佐佐木幸綱
〈「未だ地の動かざる世」は、地動説以前の世の中である。〉ホイヘンスの望遠鏡についての歌。この鑑賞を読むまで初句二句は何のことか分からなかった。そう来るかー!という表現だな。評で谷岡は、地動説が実証されていく過程を述べ、ホイヘンスの望遠鏡がその過渡期のものと説明する。〈作品からは、ヨーロッパの知識・学問体系(アカデミズム)の重厚かつ優美なイメージが伝わる。〉今、なかなか見られないテーマだ。

2022.12.14.~15.Twitterより編集再掲