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『歌壇』2022年10月号

なぜ詩を書くか、問はれて萩原朔太郎端的に応(いら)ふ「復讐のため」 小池光 エピソードを定型に当て嵌めた短歌。よくあると言えばよくあるタイプだが、どんなエピソードを選び、どう定型にするかが腕の見せ所。この歌は朔太郎のセリフを最後に持ってきてドキリとさせる。

この夏に食ひたる桃は六十個、岡山白桃(はくたう)福島赤桃(せきたう) 小池光 白桃の語に茂吉を連想させつつ、食べた桃の数に対する驚きが、歌として鑑賞することを越えてしまう。夏が7~9月の3ヶ月90日としても3日に2個食べている。四句五句のそれらしいリフレインが可笑しい。

③谷岡亜紀「鑑賞#佐佐木幸綱」
地上には雪降る夜の地下鉄にさくらをいだき過去へゆくひと 佐佐木幸綱〈やはり寓意性を核とする作品である。まず「雪」「夜」そして「地下」と、視界を遮るものが三つ設定されている。明瞭な世界から朧な世界へ。クリアーな視界が〈現実〉〈現在〉を象徴するとすれば、おぼろな視界は過去へと繋がる。下句の「さくら」から伝わるのは、日本人の精神史であり、伝統、古典、幽玄の美である。(…)伝統と現在との往還は、佐佐木の短歌の大きな柱の一つだが、その両者を結び付ける回路が他ならぬ「地下鉄」であるところに、現代の寓話としてのこの歌の味わいがある。〉
 なかなか読むのが難しい一首だが、とても深くて行き届いた鑑賞だ。寓意性、寓話という評の用語に興味を引かれる。

④「ことば見聞録」川野里子〈口語の短歌はそれ以降、かつてないほど表現の幅を広げてきました。しかし、当然、戦後文学の抱えた問いは文脈として途切れます。この無時間の流れが現在もかなりあります。〉
 口語の短歌は一首の中だけでなく、歴史的にも無時間ということか。
〈一方で、戦後からの問いを変奏しつつ引き受ける流れもあって、私もそうですけれど、そこでは文語が使われざるを得ない。それはやはり、時制の問題もあると思うのです。口語では時制が表現しにくい。口語に切り替わったとき、おのずと過去を引きずるような文脈、それを引き受けるのとは全然違う文脈が誕生した気がするんです。〉
 詩歌の中の文語と口語はある意味断絶しているが、生きて使われている言語は徐々に変化しているから、時制表現も少しずつ変わっているはずだ。口語になったらなったで助動詞に頼らない時制表現に移行しているのではないか。

⑤「ことば見聞録」④の続きで思うのだが、古語の助動詞の時制表現は豊かで、現代語のそれは単調、というのはよく言われることだが、それを補う別の言い方で私たち現代人は時制を表現しているのではないか。古人に比べて現代人の時制意識そのものが貧弱だとは言い切れないだろう。ただ、それが詩歌、特に短歌の場合は、貧弱に見えてしまうのも否定できない。そこのところはまだまだ考えてみたいところだ。  
 短歌における口語での時制表現が単調なことと、戦後からの問いと繋がってる繋がってないは、また別の問題のように思う。

⑥小澤婦貴子「熟年歌人の歌 塔短歌会の歌人たち」
わが裡の地層くだれば死者に花手向けるネアンデルタール人に遭ふ 安藤純代
昼からの風に揺れつつ葉の尖(さき)を越えぬ高さに稲の花咲く 溝川清久
「塔」の歌人の良い歌に出会える記事。選歌眼が光る。

2022.10.28.~31.Twitterより編集再掲