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『塔』2022年10月号(3)

さしあたり生きられるだけの荷物持ち連れては行けぬチェス君を抱く/父さんに会いに行ったと言わぬ子はチェス君の目の充血を言う 八木佐織 子と二人で暮らすことを決めた主体。チェス君はペット。もうペットを通してしか繋がれない元家族。主体の辛さ、子の辛さが伝わる一連。

プーチンがやってることも同じだと話すガイドの震える右手 北奥宗佑 アウシュビッツを訪れた主体。ガイドが過去の惨事を見せながら現在のプーチンを批判する。人道に反することが今も行われている。震える右手が表す、その切迫感は日本に住む我々には想像もつかないものなのだ。

飢餓状態味わえば花が咲くというサボテンのような底力なし 王生令子 充分栄養を与えられたからではなく、飢餓状態を味わったから咲く。これは咲かないと危ないと思って花を咲かすギリギリの底力。そんな力は自分に無いとあきらめてしまう主体。喩なのだが、サボテンの花も見えてくる。

サーカスがまた街にくるサーカスをいつか観た日も一緒に連れて 岩尾美加子 サーカスという語の繰り返しが5音の部分に嵌っていて心地良い。いつか観た日は、子供の頃の楽しい記憶だろうか。サーカスの連れてくる心躍りは今も変わらないのだが、もう子供の頃には戻れない寂しさも漂う。

一生の涙の量か二リットルあるいはひつじ雲の一匹 北辻一展 一生で二リットルなのか?絶対もっと泣いてる。この連作の他の歌で二リットルと羊雲ひと塊が同じと詠われている。羊雲一つと言われると、涙がぽわんと膨らんで、そのぐらいは泣いてると感じられるのが不思議。

「精神的なものですね」と医者に言はれ存在の消えゆくぼくの痛み 宮本背水 そういうこと言うお医者さんは多い。じゃあこの痛みは無いものなのか。存在してないことにされてしまった痛みだが、まだ確かに痛む。で、「取り合えず」胃腸薬なり頭痛薬なりが処方されるのだ。

㉘川本千栄「歌が歌集に入るとき―日高堯子『水衣集』と初出「百鳥」ー」〈歌集にまとめられる際に、歌が推敲され、変更を加えられて、初出で読んだ時と作品の印象が違って見えることがある。〉総合誌の初出と歌集の連作を比べて考察しました。お読みいただけるとうれしいです!

夕暮れと夜のあわいを吹く風よ 忘れられてもいいと思った 山川仁帆 夕暮れと夜の重なる時間帯を吹く風、その風に吹かれながら、誰かに自分の存在を、あるいは共通の思い出を忘れられてもいいと思った。風が微妙な心の隙間に吹き込んで来る。少しずつ何かを手放していく感覚。

小箱からあなたの声を取り出せるようになるまで森になるまで 田村穂隆 あなたの声が小箱にしまわれている。それは今の気持ちでは取り出せない。聞いたら、一度落ち着いたはずの心がまた動揺してしまうから。森のように落ち着いて聞けるようになるまで、小箱は傍に置いて閉じておく。

やはらかき宵の雨音死に近き猫が顔あげとおき目をする 田中律子 猫の死を見つめた一連。この一首は動画的だ。また、背景になっている雨音も、動画の一部となっている。猫は自分が死ぬことを知っているかのようだ。感傷に流れない、静かな観察の視線がいいと思った。

翔ぶよりも歩く時間が長いことをテレビで知った鳥達は歩く さつきいつか 翔ぶのは体力を消耗するのだろうか。公園にいる鳩は幼児に追われたぐらいでは飛ばないが、小学生に追われたら飛ぶという印象。その時も面倒くさいなと言わんばかりの飛び方だ。野生の鳥もそうなのだろうか。

カステラが刃を受け入れるやさしさに今では誰もいない縁側 吉原真 上句下句で切れるのかとも思ったが、カステラは、縁側や縁側が醸し出していた家族の時間空間の喩と取った。刃を受け入れるほどに懐深かった雰囲気がもう無くなってしまったことを、主体は実感しているのではないか。

青深き紫陽花の叢一房の真白き花はいとど真白く 八鍬友広 紫陽花の青い花が草むらのようにまとまってたくさん咲いている。その中に一房だけ白い花があり、青を背景に白さが際立つ。「真白」き、「真白」く、の繰り返しに雰囲気がある。「いとど」という古語も効いて、調べの良い歌。

脳内にクシコスポスト再生し五分で済ますあれこれとそれ 山口淳子 とても分かる!あの音楽が脳内に鳴ったら、大急ぎで走り回らなければいけない気分になる。作曲者はそんな曲じゃないと言いそうだが。これからやる気が出ない時はこの曲を脳内再生だ。結句の指示語尽くしもぴったり。

2022.11.27.~29.Twitterより編集再掲