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『短歌研究』2021年10月号

①第二回塚本邦雄賞選考会 顧問観選記 塚本青史〈今回特徴的だったのは、最初の点数の合計で一番だったものが落ちて、最下位が浮上したことだ。〉 最初の点数がひっくり返るのは割とよくあることだと思う。ただそれを言ってしまうのなら、最初の点数も公表してほしいな。選考委員の評で何となく分かるのだが、それを探りながら読むのは何だかイヤというか。後ろの評論賞は匿名だが選考委員の点が表で示されているので、よりそう思った。だが、元々「候補作は公表しない」という方針だったのだが、協議の結果、候補作も掲載することになったと書かれている。まだ第二回だから、賞の発表形式が定まっていないのだろうか。候補作が掲載されるのは良い方向への変化だと思った。

そうか、海だったのか。祖父の遺灰求めつづけし父母はいま亡く 佐伯裕子 詞書〈「A級戦犯の遺灰は太平洋に撒いた」。米国公文書発見の報道に〉A級戦犯であった祖父は作者の歌の大きなモチーフだ。三七六七七と読んだ。初句二句は心の中のつぶやき。戦後76年経て分かる真実。しかしもう間に合わない。探し続けた父母は故人となってしまった。せめて生前に分かれば…と父母をいたましく思うものの、主体の心に激しい感情はわかない。長い月日が経ち過ぎたのだ。

③小野田光「SNS時代の私性とリアリズム」作中主体を〈私〉、それと生身の作者がイコールで結ばれる場合を【私】と可視化することによって、私性の議論が混乱せずに進められておりうまいなあと思った。論も時系列で分かりやすかった。これから書くことは細部に対する感想。

〈和歌革新運動以降の【私】は、自然主義から派生した近現代短歌のリアリズムと切り離して考えることはできない。〉最近よく話題になるリアリズム。「口語のリアリズム」でもそうだが、定義が丁寧にされていない気がする。書かれていることにリアリティがあると読者に感じさせる技術の話なのか、辞書的に「写実主義」という意味か。小野田は後者のようだが、もう少し中間的な使い方の論者もいるので、一人一人リアリズムの指すものが微妙に違うような気がする。実は「リアリズム」って語には共通理解が無いんだ、という時点から始めたい。また私性というとリアリズムに直結するのもなぜかな。

④小野田光〈それ(佐藤佐太郎が事実を演出したこと)に理解を示しつつ、自らの写実への態度を変えない土屋文明の姿勢にもある種の倫理観を感じる。〉岡井隆『現代短歌入門』にあるエピソードを引用して小野田はこう述べる。しかし岡井の文は文明が方法として「事実を利用」したと続く。「おそらく土屋文明には『事実を尊重するというのも、事実を利用するという意味ではこれもまた一つの方法にすぎぬのさ』といった強烈な自信があふれていただけのことではないでしょうか」これは岡井の文明観だが、確かに文明はドライな人のイメージがあるな。倫理と言われるとちょっと違うような。

⑤小野田光〈どのような流派ができようとも、リアリズムであろうとも反リアリズムであろうとも、「生活を詠む」ことを続けてきたことは変わらない。そのために常に生活者である〈私〉が一首の背後には存在し続けてきた。〉このあたりすごい速度でまとめているのでもっと聞きたい。現代短歌が「リアリズムと反リアリズム」という捉え方でいいのか。その場合リアリズムの定義はどうなっているのか。どちらも「生活を詠む」でOK?生活者である〈私〉が存在するでOK?等々・・・。反リアリズムって、他人が言うことなの、自己申告なの、とか。色々思い巡らせながら読んだ。同論の中に「非リアリズム」という言葉も見える。どちらにしてもまずリアリズムの定義ありきだろう。最近、短歌評論でよく見るリアリズムという言葉。その言葉を取り巻く周辺が、ますます面白くなってきたと思いながら読み終えた。

⑥高良真実「私性・リアリズムの袋小路を越えて」高良は私性の定義について慎重に検討し、冒頭に四つの定義を挙げている。それを使って論を進めていく姿勢は信頼がおけると思った。また(岡井1962)など国文学の文献のような引用の仕方が新鮮。わりと短歌評論は引用元が曖昧だから。

〈近代短歌における標準的な私性(定義一)こそ近代短歌の登場とともに成立したイレギュラーなもので、〉このあたりすごく面白いと思った。しかし、その後、この論もすぐリアリズムに話が行く。私性からリアリズムに繋がるところが、略されているのかな。そこが読みたい。リアリズムも定義付けて欲しかった。「魂のレアリスム」を筆者としては、具体的にどういうことと取っているのか、と思いながら読み終わった。(後略)なので書いてある可能性は高いのだが。

⑦「評論賞選考座談会」特に印象に残った発言。
篠弘〈「魂のリアリズム」というのを塚本邦雄は提言するんだけど、当時、塚本さん自身もちょっと言い過ぎたというか、過剰な表現だった。特に「魂の」の「の」がリアリズムとどうつながるか。〉貴重な証言という感じ。

高良真実の論に対して寺井龍哉〈歌の内容が事実か虚構かは些末な問題だという見方も、とてもいいと思うんです。〉リアリズムに関して、その辺の話をもっと読みたいと思った。

⑧「篠弘インタビュー」
火の如くなりてわが行く枯野原二月の雲雀身ぬちに入れぬ 前川佐美雄
〈枯野原で二月の雲雀を懐に入れたという。枯野原を歩いていくと、わが身が火の如くなっていくというんです、自分がね。火照ってくるというんでしょうね。何となく、都会人にはとてもできる歌ではないですよね。身体感覚で、生きる充足感を捉え、雲雀の命と自分の命の関わり合いを歌った。〉とてもいい歌だと思った。篠の鑑賞もいかにも話し言葉で好感が持てる。暗い時代に佐美雄は生きるよりどころ、光りのような歌を詠ってたんだなあ。

 これを実景ではなく、「雲雀のように高いところを目指す心、解放されたいという心」というように取って読みたいとも思う。

⑨安田登「露を片敷く草枕」〈心情を内包する土地、それが歌枕です。(…)祭礼の夜、神霊はまくらに憑り移り、託宣者がそこに頭を置いて仮眠をすると、まくらに移った神霊が託宣者の中に入り(…)枕がそうであるならば、歌枕としての土地も神霊の宿る装置であり〉歌枕の枕ってそういう謂れがあったのか。

〈土地は物語を記憶します。〉明治の和歌革新で歌枕は一回チャラになったはずだが、100年以上を経て、物語を持つ土地が歌枕化している現状がある。土地だけで無く、「場」を表す言葉にもその現象が見られる。伝統的で無い歌枕が作られていくのだろう。

⑩吉川宏志「70年代短歌史」〈日常の中の美を、前衛短歌の生み出した象徴的な表現を用いつつ、清新に、あるいは色彩豊かに描いている。しなやかな身体性も伝わってくる。こうした内面的な深度を感じさせる静謐な歌は、やがて七〇年代短歌の主調音となってゆく。〉この文の前に吉川が挙げている歌はどれもこの評の当てはまるいい歌だ。前衛短歌のように派手ではないけれど、じんわりと浸みる。音楽でもブランクジェネレーションと呼ばれる70年代。この論を読んだら決してブランクじゃないことが分かる。短歌史が書き進められていくのが感じられる論だなあ。

2021.11.20.~27.Twitterより編集再掲