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こどもだったころ(Skyのはなし)

まだ暑い日の続く中、涼しさが忍び寄る9月の終わり、子供の頃の私と姉は雨上がりの外へ出かけた。何を詰め込んで帰るか予定のない虫かごを持って、湿った空気の中を走って、村の中の「おみやさん」へ。私達が生まれ育った場所は山の中にあると言っても過言ではない集落で、村の中には家と、木と、田んぼと、神社しかなかった。わたしたちは深い意味も知らず、神社のことを「おみやさん」と呼んでいた。おみやさんには、いろんな虫、どんぐり、巨木、木陰、長さのばらばらな落ちた枝、苔むした灯籠と石垣、ぎぃぎぃと軋む階段、子供の私達にとって大切なものが全部そこにあった。

なにをするでもなく、でも全てがそこにあったので、わたしたちは退屈ではなかった。

ふと、先程やんだ雨がまた落ちてくる。慌てて野草や枝でいっぱいになった虫かごを掴んで神社の軒の中へ走る。あっという間に、細い雨が音を立てるほどの勢いに変わる。大人になってから気づいたけれど、木や土の上に降る雨は、まるで吸い込まれていくように静かだ。コンクリートを叩く雨はばちばちばちと騒がしくて賑やかだけれど、あのとき自分たちが聞いていた雨は、さーーーーーー、とそんな音で、ただとても静かに降っていた。
山の中に住んでいれば急に変わる天気は珍しいことではなくて、そのときも姉と並んで、ぎぃぎぃと軋む階段に座って、雨が降りる境内を見ていた。
小さな私はふと気づく。境内の向こう、田んぼの畦に咲く赤い花。彼岸花。細い雨で白く煙って、赤い輪郭をぼやけさせて、でもまっすぐ咲いていた。彼岸花がこちらを見ている。わたしは少し寒くなる。
わたしたちの地域では、彼岸花を持って帰るとその家は火事になると言われていた。子供心にそんなことはあるわけが無いと思っていたけれど、それでも私たちは家に彼岸花をつんで帰ったことは無かった。花の癖にあまりに存在感のあるそれ。葉のないまっすぐな茎、真っ赤で繊細で豪奢な花、何本も群れてしんと咲く、美しい花だった。今思えば美しさに胸を打たれていたのだろうけど、それを見たときに走る胸騒ぎが、私は恐ろしかった。
見ている。見られている。居心地が悪くなって急に怖くなって、たった数分の夕立をとても永く感じた。

雨が上がったあとの黄色い日差しと、姉の手を引っ掴んで走って家に帰っているときの動悸、家が見えたときうなじに刺さっているように感じた視線や気配、玄関をくぐったときの安心感。子供の自分をぐらんぐらんと振り回す、そんな色んなものが私は怖くて嫌いだった。けれどすっかり大人になってから思うに、あれは、なんて大切で尊くて、取り戻しようのない感覚だったのだろう。畏怖も心細さもなにもかも、小さな自分が見ていた大きな世界にしか、存在しないものだった。


いまはもう、珍しくなった彼岸花の群生を見ても、急な雨に振られても、恐ろしく思うほどの感動は起こらない。でも雨に濡れた土の匂いがすると、ふと、帰れなくなった神社の中で座り込んでいた私達を思い出す。いつかこれも忘れてしまうのかもしれない。昔を思い出すこと、少しでも心が動くこと、それらは貴重になってしまったことにすら気付かず過ごしがちだけれど、気付いたときには、大切に触れたいと思う。


✧ ✧ ✧


孤島の寂しく多彩な空の色、草原の花と蝶の群れ、雨林の細く冷たく静かな雨、峡谷のふしぎな焦燥感、捨て地の足が竦むような闇、書庫のざわざわとした未知なるものの存在感、
子供の頃確かに身近にあって、でもなくしてしまった感覚たちが、Skyの中にはあるとおもう。Skyの中のわたしは確かに"子ども"なのだ。わけもわからずそこに来て、何も知らぬままに進み、思うがままに歩き、感覚のままに飛び、出会い、遊び、気付かぬうちにたくさんのことを学んで、理不尽にも思える驚異に立ち向かい、最後に途方も無いほどうつくしいところへたどり着く。
小さな画面越しに、毎日わたしは小さな頃の自分と出会う。


いいゲームだ。長くなったけど、これはそれだけのはなし。

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