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praying for (まずは祈るだけでいい)

私はまだ25歳だから、周囲の人たちのほとんどが、当然のように「両親ともに健在の前提」で会話をする。

1年前ぐらいだっただろうか、職場の後輩に「実家に帰ったら絶対出てくるお母さんの料理とか、あります?」と尋ねられた。

とても気楽な、明るい話題。だが、細部は忘れてしまったが、その会話には「私の母が生きている前提」が濁流のように流れていて。だからこそ私は事実を述べなければならなかった。

「私のお母さんは、もう亡くなってるからなぁ」

ここで濁流に乗り、「私の母が今現在も生きているかのように」話す選択肢も、もちろんある。“死”というものが、センシティブに扱われ、ネガティブに捉えられてしまう、それが今の社会の姿だから。

「あ、そうなんですね……なんか悪いこと聞いちゃいましたね。ごめんなさい」

私は、「私の母が生きている前提」で話されるのが嫌なわけではない。むしろしょうがないと諦めている。私の知る限りでは、周囲の同世代に「両親のいずれかを失っている人」はいない。「両親は健在だが、祖父母のいずれかを失っている人」が多少いるくらいだ。

おそらく私は、この点でいわばマイノリティなんだろう。

しかし、会話の流れを重要視すると、私は嘘をつくことになってしまう。それだけはどうしても嫌だった。濁流に飲まれたくなかった。それはまるで、母の死そのものを否定しているように思えてしまうから。

私は、「私の母が生きている前提」で話されるのが嫌なわけではない。でも、空気を読んで「私の母が生きているかのように」話すのは嫌だ。そんな自我によって、私はときどき、場の空気を重くさせてしまう。他者に気を遣わせてしまう。それが申し訳ない。


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もっと言えば、本当は「母は自死した」ということも、嘘をつかず、平坦に話したい。

ただの“死”すら淡々と語れないこの社会で、“死”は、もはやタブー視されていると言っていい。「自殺するヤツはおかしい、迷惑だ」と言ってのける人も、残念ながらまだまだ多い。日本人の死因順位、その上位には常に“自死”が鎮座しているにも関わらず。

母は亡くなっていると話すと、「何が原因ですか?」「病気ですか?」と尋ねてくる人がいる。たいがい、そういう人たちは、返ってくる答えに”自死”ってワードが存在しうるなんて、考えもしていないんじゃないか。

「自分の周囲に自死者や自死遺族なんていないよ!」と言いたくなったならば、我が身を振り返ってみてほしい。たった一度でも"自死”や、それに関連する話題(うつとか、自傷行為とか)について、差別的な発言をした過去がなかったか。

「人身事故で電車が遅れちゃって。なんで人様に迷惑かけてまで死のうとするのかしら?信じられないわ!」

私のような人間は、そういうたった一度の失言を、しつこく覚えている。そんな人間に「私の母は自死した」なんて、絶対に言わない。死因が"自死”というだけで最愛の母を侮蔑されるなど、絶対に嫌なのだ。下手したら、それは母が自死した事実よりも、深く私を傷つけうる。

「かわいそうだから、突然の心臓病で亡くなったことにしよう」

私の父親はそう言った。あのとき私は、確かに傷ついた。「かわいそう」なんて思いたくない。「かわいそうだから」って嘘をつきたくない。

私にとって「かわいそう」とは、差別的な言葉だった。対象を見下す含みをもった言葉だった。大嫌いな言葉のひとつだった。

私にとって嘘をつくことは、心のなかで事実を否定することだった。受け入れないことだった。目を背けることだった。

しかし、世間はそう簡単にいかない。


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"死”は誰にでも訪れるものなのに、語りたくないもの、語るべきでないものとして置き去りにされている。

そういえば、首吊りの現場をスマホで撮影する人々がいた。あなたの家族にも、あなたの友人にも、そしてあなた自身にも自死する可能性があるのに、自死者はさまざまな意味で「恰好の獲物」と成り果てている。

「突然の心臓病」と言っておいたほうが、安全だ。

それでも私は、語りたいと思ってしまった。語らなければ、吐き出さなければ、自分の心が壊れてしまいそうだった。誰かに聞いてほしい、でも、偏見なく聞いてくれる人なんて、身近にはいそうもない。

語れば語ったで、誰かに傷つけられる。語らなければ語らなかったで、自分が自分を傷つける。

死ほど普遍的なことって、ないのに。この社会には「言いやすい死」と「言いにくい死」がある。私は納得がいかない。死因が何であろうと、そこに優劣はない。死は「死」でしかなく、誰にとっても平等なはずだ。

誰もが必ず死ぬ。
それは明日かもしれない。
もしかしたら死因は自死かもしれない。
自死は「追い詰められた死」だ。
自死者が悪いのではない。
自死させるこの社会がおかしいのだ。

自死や自死者が侮辱されるいわれはない。

死を身近なものとして語ろうとか、異質で理解できないからといって攻撃するのはやめようとか、わからないことには沈黙するしかないんだとか。「社会がこんなふうになってほしい」と思うことはたくさんあるけれど。

せめて、ひとつだけ。自死者の気持ちを理解しろ、自死遺族の気持ちを理解しろ、とは言わない。ただせめて、この世界で精一杯生きた命があったことを思い、死んでいった命に祈る心だけはどうか、忘れないでほしいんだ。


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2020.01.16
母の死から、4年。
私は今も、祈りつづけている。


  

良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。