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不整脈をもっている(写ルンです一個分の写真ぜんぶとエッセイ)

長らく不整脈持ちである。

初めて不整脈と診断が下ったのは、小学六年生のとき、修学旅行前に行われた健康診断だった。そのときは心電図の検査結果にただ「不整脈」と古めかしいフォントのハンコが押されただけで、精密検査を受けろと言われることもなく終わったが。

家からそれなりに離れた高校に通うようになると、学内での健康診断を担う病院も小・中学校とは変わる。するとどうだ、聴診器で心音を聴くだけのシンプルな内科検診で、毎回必ず引っかかるようになった。

名簿順で私より前の人たちが流れ作業のようにスルスルと通過していく中、いざ私が心音を聴かせる番になると、お医者さんはまず首をひねった。それまでの流れは私でせき止められ、お医者さんは念入りに聴診器を当てる。ときどき目を閉じて聴覚に集中するそぶりも見せる。そして最後には必ず「ちょっと雑音が気になりますね…」と口にするのだった。

そのお医者さんによると、「気になるといえば気になるが、気にならないといえば気にならない」といったレベルのものであるらしかった。

後日、担任の先生から名前を呼ばれてプリントを渡される。そこには「精密検査を受けるように」と書かれている。家に帰り、私はそれを母に渡す。そしてまた後日、母とともに総合病院へと赴く。

三年間、これを繰り返す羽目になった。

一年生のとき、初めての受診では、この雑音に“雑音”以外の名前は何もつかなかった。

いろんな検査をしたものだ。仰向けに寝て心電図を撮ったし、横向きに寝てエコー検査もした。血液検査もした。血液検査って、関係あるんか?と思ったが、そりゃあるかとも思った。血液を全身に循環させるのは、心臓が担う大事な仕事だ。

一番めんどうだったのは、24時間心電図検査だ。

心電図を記録できる小型の機器を体に取りつけ、これを文字通り24時間付けっぱなしで生活し、異常がないか診る検査である。

まずこの検査中はお風呂に入れない。機械を体に付けているから当たり前と言えば当たり前だが、学校の内科検診を受け、精密検査の指示を受け、いざ病院へ行く――いつもいつも、そのタイミングはどうしても夏だったのである。しかも家にはエアコンがなく、あるのは扇風機だけ。単純に言って最悪だ。

ここへさらにめんどうさに拍車をかけるのが、行動記録である。何時何分にごはんを食べましたとか、何時何分頃に階段を駆け上がりましたとか、心電図に影響が出そうな行動があったら、いちいち書き残さなければならない。これをしないと「何もしていないのに心電図が変だぞ」と異常を発見するきっかけが消失してしまうのだ。

だが、当時私は華のJKである。思春期真っ只中の女の子に「○時○分 トイレ(大)」と手書きさせるのは酷というものではないか。

いや、しょうがないのです。心臓という、言ってしまえば生死を分ける存在に関わる検査なのだから。そんなことは言っていられないのです。

と、夏休みを二日つぶして検査したものの、心雑音に名前はつかず。「要経過観察」と煮え切らない検査結果が書類に記され、夏休み明け、私はそれを担任の先生に提出するのだった。

動きがあったのは、二年生のとき、二回目の精密検査だった。

例のごとく学校の内科検診に引っかかり、担任の先生からプリントを渡され、また夏休みをつぶして病院へ行く。

一度経験してしまえば慣れたものである。息を止めなければならないエコー検査で、先生がなかなか「はいもう息していいですよ」と言ってくれない事件などはあったが、すべてが一年目とおおむね同じように進んだ。

もちろん24時間心電図検査もした。濃くハツラツとした字で「○時○分 トイレ(大)」と書いた。

そして来たる検査結果発表の時間。主治医が私に告げたのは、「かなり軽度の三尖弁閉塞不全とワンダリングペースメーカ」という、あまりにも耳慣れぬワードだった。

検査二回目にしてそんな急に二つも出てくる?

三尖弁閉塞不全とは、心臓の右心房と右心室を隔てる「三尖弁」が閉じ切らないために血液が逆流しちゃってるよーってやつである。エコー検査で本当にわずか〜にそれが見られたとのことだった。

あのときエコー検査の先生が私に「もう息していいですよ」と言い忘れたのは、この見極めに全集中したせいだったようだ。じゃあしょうがないな。

心臓は、自身をリズム良くポンプのように動かすために、「洞結節」という場所から電気信号を発生させている。その発生場所が洞結節とは別の場所にあるのが、もうひとつの診断として示されたワンダリングペースメーカだ。

なんでこっちは小難しい漢字を並べた日本語じゃなくてカタカナ表記なんだろうか、なんか必殺技みたいだな、と思った。

くらえ!ワンダリングペースメーカ!ズドドーン

……のんきなものである。

どちらも特に治療が必要なものではないので大丈夫ですが、定期的に検診を受けるのが良いかと思います。主治医はそう言って、書類に「要経過観察」と記した。心雑音に一応の名はついたが、結局、終着点は同じだった。

不思議なことに、あの頃の私には不安が一切なかった。「心臓になんかあるっぽいですよ」ってお医者さんに言われているのに。下手したら死に直結するような何かが暴かれる可能性だってあったのに。

そういえば、「治療の必要はない軽度の三尖弁閉塞不全とワンダリングペースメーカ」と心雑音に名前がついたあの日の帰りは、母の表情や声音が妙に明るかった記憶がある。上機嫌でジャスコの中にあるスタバかなんかに立ち寄った気もする。

いや、おい、よく考えたらそれが当たり前では。「娘の心臓に何か問題があるかもしれない」って判明したら、そりゃ心配するだろ。

この件に限らずだが、こういうときに私の前では絶対にうろたえないのが、母が選び取った「母としてのあり方」だった。そんなことも露知らず、当時の私は「24時間心電図めんどっちぃ〜」としか思っていなかったってわけ。

まったく、のんきなものである。まぁしかし、いつの時代も子というのはそういう生き物なのだろう。親の心子知らず、とはよく言ったもので。

それにしても、なぜ受診に際して不安がなかったのだろう。

大した自覚症状がなかったせいもあろうが、一番は自死念慮のせいだったのではないか。

高校生の頃にはすでに死にてぇ〜と願うきもちがかなり強かったから、「心臓が悪いならそれはそれで都合がいい」ぐらいの感じだったかもしれない。もしくは、自分の将来に対する不安感のほうが強すぎて、今ここにある自分の心臓がどうかなど些末な問題だと思い込んでいたのかもしれない。

心のなかにある天秤は、自分が思う以上に狂いやすいようだ。

Apple watchが心室除細動という心臓の異常を検知して知らせてくれる機能を持っている、とTwitterで見かけた。とても興味が湧いている。

未来への悲観が今この瞬間の自分より先行しては意味がない、と覚えておこう。心臓が意図せずとも絶え間なく動きつづけるように、今と未来は常に地続きなのだから。

……それでも悩み苦しんでしまうのが、自分という存在ではあるのだけど。


 


良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。