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光は影と共にあり、闇は光をもたらす

写真を撮っている。

「なぜ撮るのか」と問われれば、私は「撮りたいからだ」と答えるだろう。「なぜ撮りたいのか」と問われれば、私は「世界が美しいからだ」と答えるだろう。

「写真」というものは、わずかでも光が存在しなければ、その景色を写すことができない。真っ暗な箱に小さな針穴を開けただけのカメラ・オブスクラ、つまり写真機の始まりの時代から、それだけは変わらない。

写真は光ありき。だから私は光を追いかける。歩き、歩き、歩いて、目を凝らし、そして光を見つける。撮る。光という「実体のないもの」を写そうとする。

すると、そこには必ず一緒に「影」が写る。そこでハッと気づかされる。光は影と共にあるからこそ、“光”として認識できるのだ。光だけが存在する世界で、光は“光”と呼ばれることはないのだろう。この世界に溢れる光はあまりに美しい。そしてそれは、影がなければわからない。


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文章を書いている。

「なぜ書くのか」と問われれば、私は「書きたいからだ」と答えるだろう。「なぜ書きたいのか」と問われれば、私は「絶望しているからだ」と答えるだろう。

承認欲求が渦巻き自己肯定感に乏しく自信もないこの心は、何が何でも全てを否定した。死んでしまえばいい、全て消えてなくなればいい、この社会はなんとろくでもない場所か、と。

溢れ出してぐるぐる回り続ける思考にめまいがした。吐き出す術が欲しかった。だから私は書き始めた。

抱え込んだ思考の塊をひとつずつ書き綴る。不思議なことに、闇を吐き出せば吐き出すほど、心の中に小さな希望が光っているのを見つけることができた。私は死にたかったのではなく、自由に生きたかった。私は否定したかったのではなく、肯定したかったのだ。


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闇を綴り、心に光を見出す。その心が世界に光を見つけ、撮る。その光は影あってこその美しさと知る。自らの心の影も、まるごと受け入れていく。

その循環の中で、私は何度だって思う。「この世界は美しい。」

民家の庭から枝葉を伸ばす桜の木や、電柱と電柱のあいだから顔をのぞかせる橙色の夕焼け、たまにばったりと出くわす茶トラ猫、そんななんてことのない景色の中。世界の美しさは、そんなありふれた日常の中に存在している。

実体なき闇を受け入れ、実体なき光を追いかける。そうしてこの世界の美しさに気づくこの心にだって実体はない。もっと言えば、美しさそのものにだって実体はない。

つまるところ、「表現」とは何か。

私にとってそれは、「実体なきものを意識する日々そのもの」だ。


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こちらの私設コンテストに参加させていただきました!

【2019/12/23追記】

上記コンテスト #表現とこころ賞 にて、「シロフクロウ賞」をいただきました。ありがとうございます!

  

良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。