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【写真】梅雨とも夏ともつかぬ曖昧な季節の真ん中で

暁天の青は雨粒に溶け、その雨を浴びた紫陽花が青色に染まる。晩天の紫を食べて咲いたラベンダーが、湿り気を含んだ風に香りを乗せる。

六月。夏の足音は忍ぶこともなく、雨の季節を押しのけながらこちらへやってくる。雨の妖精は強引な夏を横目にため息をつきつつ、緑や花々と静かに語らっている。




満開の紫陽花がならぶ道路脇を通り過ぎると、にぎやかな鳥の声が耳に入ってきた。見上げれば、数羽の小さなツバメたちが飛びまわっている。同じ場所を何度も何度も、円を描くように。巣立ちを迎えようとする前の飛ぶ練習だろうか。

なんとなしにYouTubeを開いた夜、おすすめに出てきた猫の動画を再生した。ぽてぽてと歩いてはごろんと寝転がる猫。かわいいなと思って動画を投稿したチャンネルを見てみたら、その猫はほんの数週間前に亡くなっていた。

朝の満員電車から見えた、窓辺を彩る「HAPPY BIRTHDAY」のバルーンアート。見知らぬ街で見かけた、「○○家葬儀会場はこちら」と書かれたモノクロの看板。大地の上には、いつもおびただしいほどに生と死が林立している。




無意味に徹夜してしまった明け方、しんどさを強く感じてふとんに倒れこんだ。

ときどき、自分は毎日「ゆるやかな自死」を選びつづけているのではないか、と思うようになった。ロープで今すぐに、ではなく、真綿でじわじわと。カーテンのすき間から突き刺してくる朝の光。今は生きていくが、いつかは命を手放す。そこに悲観も焦燥もなく、ただ眠る。

夜通し泣いて目を腫らすほどの体力はもうない。もがき苦しむことにも焦って走り回ることにも疲れて、諦めてしまっているような気さえする。それでも雨の気配が近づいてきたら慌てて洗濯物を取りこんだり、これから来る本格的な夏に備えてもっとTシャツが欲しいと考えたりする。

死にゆこうとする感覚と生きていこうとする感覚は、今日も互いに平気な顔で共存している。




夜の雨音は絶え間ない音楽。激しいそれによって澱みを洗い流した翌日の空は、まだ六月とは思えぬほどの晴天。曲がった傘は家に置いたまま外に出た。

あらゆる命を糧にエネルギーを得て、身体は動く。一方で自覚はなくともどこかしらの細胞が毎日死んでいる。生まれ変わるものもあれば、死んだら終わりのものもある。この身体ひとつの中にすら、たくさんの生と死が巻き起こっている。

ふと見上げれば、夕空を穿つ龍みたいな雲の背で、雨の妖精と夏の妖精が一緒に踊り狂っていた。その力強いリズムが吹かせた風が、背中を伝う汗を冷やす。そのたびに自分の身体、その輪郭を自覚する。自分は今もまだ世界の中に自分として存在している。



梅雨とも夏ともつかぬ曖昧な季節の真ん中で、死にゆこうとする感覚とも、生きていこうとする感覚とも手を繋いだ。それらは別々のようでいて、きっと表裏一体の感覚だ。生と死が互いに互いを否定しながら、しかし地続きであるのと同じように。

紫陽花の美しい公園で、頼まれて見知らぬ家族の写真を撮った。夫婦とまだ小さなお子さんが二人。この子たちの目に今この瞬間の風景はどう映っているのだろうか。私みたいにならないようにね、と願いながら、一方で私みたいになってもまぁ生きていくことはできるよ、とも思う。シャッターボタンをタップする。そこに映る笑顔は、生きていく姿そのものだった。
































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月報

労働の予定を最低限に抑えた一か月。昔から五月半ばから六月あたりの時期が苦手だ。去年の日記も一昨年の日記も、この時期は調子が悪いと書いてばかり。小学生の頃、一か月間不登校になったのもこのぐらいの時期だったはず。一年で一番しんどさが募る季節。雨や短いスパンで変化する気圧・気温による不調なんだろうと思う。

今年もやっぱり家からなかなか出られない状態が続いた。最近はマシになってきたが、まだ雨の季節を抜けたわけではないのでまた具合悪くなるかもしれない。でもそのときはそのときか。夏はしっかりと働く予定。そんな中でもなんとか夏の風景を撮っていきたいものだ。

ラベンダーソフトクリーム。
口に含んだ後、ラベンダーの香りが鼻に抜ける。
紅茶フレーバーのアイスを食べる感じでおいしかった。


今月のプレイリスト

とても素敵な六月でした / 初音ミク(Eight)

未来になれなかったあの夜に / amazarashi

決意の朝に / Aqua Timez


  

  

良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。