それはまるで母のような
雨に濡れて湧き立つ土の香り。小さな赤い果実を摘む。どんぐりを踏みしめながらリスの残像を見た。霧が朝を囲む。まばゆいほど輝く緑は風に揺られ、キツネは銀世界に足跡を残していく。
そんな海のない土地で生まれ、山のふもとで育った。
だから、海は特別な場所だった。
夏休みになれば、家族三人で新潟の海水浴場へと赴く。小学生の頃の話。手押しポンプでふくらませる浮き輪は、もう何色だったかも思い出せない。海の家で食べたのはいつも焼きそば。高齢出産のもとで生まれてきた私。両親との体力差など、考えたことはなく。
一度だけ、母と「行けるところまで泳いでみよう」と調子に乗り、思ったよりも遠くに流されて焦ったことがある。傷一つなく戻ってこられてよかった。今ではここに書く瞬間まで思い出せなかったぐらいの、小さな笑い話。
私が精神を病むと、両親は外に出たがらない私を海へと連れ出した。どこの海だったのか、そこで何を話したのか、何を食べたのか。何一つ覚えていない。車の中で眠っていただけ。脳が記録したのは「たどり着いた場所が海だった」という事実だけ。
それでも、海岸で拾った何の変哲もない石は、今でもクローゼットの中に眠らせてある。
占い師に「あなたは火の性質だから、木に触れるとパワーをもらえる」と言われた。じゃあ、水は逆にパワーを打ち消すのだろうか。それとも、心に凪をもたらすにはちょうどいいのだろうか。
いつか母が「遺骨は海に撒いてほしいなぁ」と言っていた。たしか、何かしらのテレビ番組で終活特集をやっていたときだと思う。対して父親の前では「一緒のお墓に入ろうね」と言っていた。テレビで「熟年離婚が増えてきています」みたいな特集が流れたときとか。
どっちが本音だったの?
どっちも本音だったの?
母の遺骨は骨壷に詰められ、墓石の下に安置されている。日本の一般的な方法通り。でも、昔大ヒットしたあの歌みたいになるけれど、母はそこにいない気がする。というか、死んじゃったんだし、もう自由に楽しんでいてほしい。たとえば大好きだった『赤毛のアン』の聖地巡礼とかしちゃっててほしい。
海をみると安心するんだ。
あなたの慈しみが
溶けこんでいる気がするから。
すべてを受け入れては肯定してくれた、
唯一無二のあなたみたいだから。
また逢うときが来たら、
一緒に海をみながら話したいよ。
良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。