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雑多な本棚

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幸福への恐怖(それでも生きる)

具合が悪くて寝込んでいるうちに、季節はどんどん加速していたようだ。眠気を誘う陽気に、鼻がムズムズとしてくしゃみが出る。そういえば目がかゆいな。春は好きだが、花粉はつらい。 この二週間で三回発熱した。一回目は微熱、二回目が高熱、三回目は微熱。病院に行ったけれど、コロナでもインフルエンザでもないとわかっただけで、いまだ検査中の身である。 「発熱外来」というものを初めて経験した。私が行ったのは小さな個人病院だった。事前に予約して、当日病院の駐車場に着いたらまず電話をする。すると

うつむいても幸あれ(よいお年を)

今年一月の日記を読み返したら、その頃の自分は驚くほど落ち込んでいた。当時の職場にいたパートのおばさんに攻撃され、疲弊していたらしい。シンプルに無視されたり、仕事を押しつけられたり、「年上を敬え」とLINEが来たり。 あの頃は、リュックに小さい頃からそばにいるクマのぬいぐるみを忍ばせて出勤していた。そのぐらいに限界だった。 日記には、毎日のように「母に会いたい」と書かれている。 そういえばそんなこともあったな、と思う。今やもうその職場自体がなくなり、私はそのおばさんのLI

花降らさば光抱く

「亡くなった人を思い出すと、その人に花が降る。」 流れていくタイムラインにその言葉をみつけたとき、私はこたつにもぐって黙々と本を読む母の姿を思い出していた。 その瞬間にも、母の頭上に花は降っただろうか。その花は果たしてどのくらいの大きさで、どれほどの多さで、どんな感触で、どんな色あいだったのだろうか。 ✶ ✶ つい先日、マンガ『図書館戦争』(弓きいろ)が完結した。 これはラブコメ小説『図書館戦争』(有川浩)シリーズをコミカライズした作品で、私がこれを初めて手にした

Far away from home...

高松駅を出発した寝台特急は、ガタンゴトンと小気味良いリズムを刻みながら、瀬戸大橋を駆け抜けていく。 瀬戸内海は黒々と輝き、海面はまるで枯山水のように線を描く。あれ、そもそも枯山水は水を用いずに水を表現するものなんだから、順番が逆か。私は何を言っているんだか。流れていく車窓に視界を任せ、独り、缶チューハイをカシュッと開けた。 四国に散りばめられた煌めきが遠ざかる分、本州の街明かりが近づいてくる。それは旅の終わりとの、そして日常との距離がどんどん狭まっていることも意味している

それはまるで母のような

雨に濡れて湧き立つ土の香り。小さな赤い果実を摘む。どんぐりを踏みしめながらリスの残像を見た。霧が朝を囲む。まばゆいほど輝く緑は風に揺られ、キツネは銀世界に足跡を残していく。 そんな海のない土地で生まれ、山のふもとで育った。 だから、海は特別な場所だった。 夏休みになれば、家族三人で新潟の海水浴場へと赴く。小学生の頃の話。手押しポンプでふくらませる浮き輪は、もう何色だったかも思い出せない。海の家で食べたのはいつも焼きそば。高齢出産のもとで生まれてきた私。両親との体力差など

私の病室には椿を飾って

椿は、桜のように花びら一枚一枚が風に舞って散っていく花ではない。命を終えるときには、その首ごと、ぽとりと土に落ちる。 昔の誰かはその姿を「不吉だ」と忌んだらしく、現代でも、お見舞いや退院祝いにおいて、椿を選んではならないとされている。 椿が好きだ。 椿が最盛期を迎えるのは、だいたい一月から二月。多くの植物が眠る真冬。景色が色褪せてみえるその季節に、椿は咲き誇る。真っ赤な椿に真っ白な雪が重なる光景は、形容しがたい美しさだ。 寒空の下に赤を燃やす、その命は力強い。 椿が

あなたとみた春を想いだせない

「忘れる」とは、生きていく上で必要な機能だ。 一年前の今日何を買ったとか、先週の金曜日のTO DOリストとか、昨日通勤路ですれ違った人の服の色とか。そんな些細なものごとを覚えていられるほど、私たちの脳みそにはスペースがないらしい。 積み重なっていく日常には、忘れていいことのほうが、たぶん多い。だから、重要なメモリーの保管場所を確保するために、些細なものごとは「忘れる」のだ。 今までにこの目がみてきた色は、一体どのくらいあるのだろう?この肌が感じてきた風の種類は?この口か

"あがり”たくなったら"一回休み”を

20歳を目前に死のうとした人間の提供でお送りします。 私は、現在25歳の人間である。もっと言うと今年の11月に生誕26周年になる。ざっくり言うとアラサーである。そして特に何者でもない。どこにでもいるような居酒屋店員である。最近はメロンパンとココナッツサブレにハマっている、いたって一般的な一般人だ。 さて、私が20歳のときは何をしていただろうか。思い出してみると、これといった記憶がない。実質的に一回死んだ直後だったから。 「20歳」という概念に怯えていた。 大人になるの

点と線

今はもう捨てた黄緑色のカーテンを思い出す。一人暮らしを始めるとき、近所にあるスーパーの二階で、親に買ってもらったものだ。 妙にテロテロとした素材で、中途半端な光沢をたたえた、いかにも安っぽいカーテン。アパートの窓にサイズが合わなくて、母が手縫いで丈を詰めてくれた。 六年前の夏、私はそのカーテンを朝から朝まで閉め切っていた。 追い詰められていたんだと思う。 毎晩Googleの検索窓に「自殺 方法」と打ち込んでいた。「自殺 方法 苦しくない」のときもあった。服毒がいちばん

私はバッカス、ならば月の女神は

アメジストの紫色は、日光によって退色する。 憧れていた。 近い世界でいえば、教室の真ん中でいつもクラスメイトに囲まれていたあの人。毎年、運動会のリレー選手に抜擢されていたあの子。遠い世界でいえば、ステージの上でスポットライトを浴びる大好きなアーティスト。サンパチマイクを前に躍動する大好きな漫才師。 憧れていた。いつもいつも、あらゆる存在に対して。 世界の中心に両足をつけて立ち、周囲を巻き込んでいくような。そういう力が私にはない。いつもいつも、中心から離れた場所から視線

praying for (まずは祈るだけでいい)

私はまだ25歳だから、周囲の人たちのほとんどが、当然のように「両親ともに健在の前提」で会話をする。 1年前ぐらいだっただろうか、職場の後輩に「実家に帰ったら絶対出てくるお母さんの料理とか、あります?」と尋ねられた。 とても気楽な、明るい話題。だが、細部は忘れてしまったが、その会話には「私の母が生きている前提」が濁流のように流れていて。だからこそ私は事実を述べなければならなかった。 「私のお母さんは、もう亡くなってるからなぁ」 ここで濁流に乗り、「私の母が今現在も生きて