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雑多な本棚

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#フィルム写真

幸福への恐怖(それでも生きる)

具合が悪くて寝込んでいるうちに、季節はどんどん加速していたようだ。眠気を誘う陽気に、鼻がムズムズとしてくしゃみが出る。そういえば目がかゆいな。春は好きだが、花粉はつらい。 この二週間で三回発熱した。一回目は微熱、二回目が高熱、三回目は微熱。病院に行ったけれど、コロナでもインフルエンザでもないとわかっただけで、いまだ検査中の身である。 「発熱外来」というものを初めて経験した。私が行ったのは小さな個人病院だった。事前に予約して、当日病院の駐車場に着いたらまず電話をする。すると

私の病室には椿を飾って

椿は、桜のように花びら一枚一枚が風に舞って散っていく花ではない。命を終えるときには、その首ごと、ぽとりと土に落ちる。 昔の誰かはその姿を「不吉だ」と忌んだらしく、現代でも、お見舞いや退院祝いにおいて、椿を選んではならないとされている。 椿が好きだ。 椿が最盛期を迎えるのは、だいたい一月から二月。多くの植物が眠る真冬。景色が色褪せてみえるその季節に、椿は咲き誇る。真っ赤な椿に真っ白な雪が重なる光景は、形容しがたい美しさだ。 寒空の下に赤を燃やす、その命は力強い。 椿が

"あがり”たくなったら"一回休み”を

20歳を目前に死のうとした人間の提供でお送りします。 私は、現在25歳の人間である。もっと言うと今年の11月に生誕26周年になる。ざっくり言うとアラサーである。そして特に何者でもない。どこにでもいるような居酒屋店員である。最近はメロンパンとココナッツサブレにハマっている、いたって一般的な一般人だ。 さて、私が20歳のときは何をしていただろうか。思い出してみると、これといった記憶がない。実質的に一回死んだ直後だったから。 「20歳」という概念に怯えていた。 大人になるの

点と線

今はもう捨てた黄緑色のカーテンを思い出す。一人暮らしを始めるとき、近所にあるスーパーの二階で、親に買ってもらったものだ。 妙にテロテロとした素材で、中途半端な光沢をたたえた、いかにも安っぽいカーテン。アパートの窓にサイズが合わなくて、母が手縫いで丈を詰めてくれた。 六年前の夏、私はそのカーテンを朝から朝まで閉め切っていた。 追い詰められていたんだと思う。 毎晩Googleの検索窓に「自殺 方法」と打ち込んでいた。「自殺 方法 苦しくない」のときもあった。服毒がいちばん

私はバッカス、ならば月の女神は

アメジストの紫色は、日光によって退色する。 憧れていた。 近い世界でいえば、教室の真ん中でいつもクラスメイトに囲まれていたあの人。毎年、運動会のリレー選手に抜擢されていたあの子。遠い世界でいえば、ステージの上でスポットライトを浴びる大好きなアーティスト。サンパチマイクを前に躍動する大好きな漫才師。 憧れていた。いつもいつも、あらゆる存在に対して。 世界の中心に両足をつけて立ち、周囲を巻き込んでいくような。そういう力が私にはない。いつもいつも、中心から離れた場所から視線

praying for (まずは祈るだけでいい)

私はまだ25歳だから、周囲の人たちのほとんどが、当然のように「両親ともに健在の前提」で会話をする。 1年前ぐらいだっただろうか、職場の後輩に「実家に帰ったら絶対出てくるお母さんの料理とか、あります?」と尋ねられた。 とても気楽な、明るい話題。だが、細部は忘れてしまったが、その会話には「私の母が生きている前提」が濁流のように流れていて。だからこそ私は事実を述べなければならなかった。 「私のお母さんは、もう亡くなってるからなぁ」 ここで濁流に乗り、「私の母が今現在も生きて