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ART SINCE 1900 読書メモ(要素の抽出と感想)_1_Introductions_1_モダニズムにおける精神分析、方法としての精神分析

※以下は素人が 『ART SINCE 1900 図鑑 1900年以後の芸術』を読んでまとめたメモである。
本稿をきっかけに内容に興味を持った奇特な方がいらしたら、是非 原本をお読みいただければと思う。
その結果、本稿の不出来に対して不快感を持たれることも大いに予想されるが、まぁそこはひとつ、寛大な心でご容赦を。

まずはフロイトに関して

この章ではフロイトに関する話題が多々出てくる。というかほとんどその話。
なので一応、フロイトについてのwikiを貼っておく。(開幕早々の手抜き)

フロイトは、芸術を私達が苦痛を伴って本能を手放したことに対する(ささやかな)埋め合わせ(=社会を維持する方向に働くもの)と判断していた。
また、文化は本質的にエディプスコンプレックスに根差した「葛藤する欲望」を加工した結果だと考えていた。
「加工」は物語的(ナラティブ)に行われるが、その「加工」が絵画や彫刻その他に対してどんな働きをするのかは不明であった。

そして芸術を記憶や空想の単なる改訂ではなく、病的精神状態を避けるための手段のひとつとしても考えていた。
(だが、美術史を精神分析のケーススタディに改造するのは問題がある。。)
さらに、芸術は記憶や空想の根源的「代理」でもあり、私達は作品を見ることで<原風景:自我の形成に関わる決定的な出来事≒視覚的な光景のこと。>を
「初めて」見ることができる、とした。

なお、この「原風景」は私達の抱く確信を再び揺るがす理論的な原型(プロトタイプ)として用いられた。
 ・1920〜30年代:シュルレアリスム芸術の中で
 ・1970〜80年代:フェミニズムアートの一部で

フロイトは自我とはまず身体の「イメージ」から生まれる、とした。
そして、ラカンは幼児は最初、「イメージ」に「反映(=壊れやすいまとまりを得ることを許す。視覚的なまとまり。)」の中で出会う、とした。
この「視覚」が「ぐらつく」・あるいは「見ること」の快楽が「過剰」の領域へと傾いていく諸契機として段階づけられているので注意が必要だとした。
(何となく、幼児期の衝撃的な出来事が個人のフェティッシュの根源になり得るのと近いイメージ?)

”力点は毎回、見るとはどういうことか、という問題に置かれる。セクシャリティは何が見られたという内容よりも見る者の主体性の中に在しているのである。”

ちなみに唐突に出てきた「ラカン」とはこんな人(またも工夫なくwikiのリンク)

フロイト的批評の特徴とは

◆象徴的解釈

暗号を解読するかのように批評を行った。(アイコノグラフィー)
初期は、潜在的なメッセージを解読する対象として芸術作品をの夢のような形で取り扱った。(象徴的読解)
図解的であり循環的。美術史でいうアイコノグラフィーと似ている。(ヴァニタス画における静物のチョイスの意味的な?)
↑こういう解釈を多くのモダニズム芸術は抽象や偶然を用いた技法などで挫折させようとした。

◆プロセスの記述

作品を見て私達の深部の心的源泉から受け入れられる快=呼び水。予快。←私達にもそのエッセンスがあるから共感するのやも。緊張からの解放。
芸術作品は(私達と同じ不満を含んだ)現実を反映している。
私達はそれを鑑賞することで、形式的(心理的)緊張が解消される。これが快となり、魅了される。
ちなみに、作品に対して、その意図や作家性・伝記を(生産的な形で)疑問に付すことで精神分析や心理的伝記自体も疑問に付されることになる。

◆修辞におけるアナロジー

作品の表現を(レトリック=物語)的な観点で分析・類推する。

精神分析とアートとの関わり

精神分析は20世紀の初頭、モダニズム芸術が認められだしたのと同じ頃に「無意識の科学」として発展を遂げた。
同じ頃、クリムトやエゴン・シーレはアカデミーから離れた立ち位置で退行的な夢やエロティックな空想を表現した。
これらは、その後のシュルレアリスムへの流れを作るとともに、社会的制度の安定に対する危機の兆候と捉えられた。

また、「偏執症」や「スキゾフレニア」の徴候のある人は
「絶望的なまでの秩序の投影」や「自己転位の徴候(矛盾した欲望)」を身体を使って外に表現すると考えられた。
例えば、自動現象・自動筆記などの手段を用いて「狂気の真似事」を行う、とされた。
これらの傾向から、作品は作者の「精神」を説明しているだけの「わざとらしいもの」なのか?という疑念が生じた。

1930年代初め頃は、モダニズム芸術は下記と関連しているという定説があった。
 ・精神分析
 ・精神疾患
 ・プリミティヴィズム
  単純・原始的なもの。生の単純さ・純粋さを表す、幼児期への固着・前エディプス的な性質を表しているとされた。←どれも勝手な解釈であろう。
  例:ゴーギャンの<南仏の土地の住人との「同化」>やピカソ、マティスの<アフリカのオブジェからの影響/西洋的伝統絵画の改定>など。
 ・子供(じみた表現)
このため、「退廃的」なものとしてナチズムから弾襲の対象になったりもした、、

シュルレアリスム

『精神疾患患者の芸術性(1922)』がクレー、エルンスト、デュビュッフェに影響を与える。
(例)エルンストの初期のコラージュ。シュルレアリスムの先駆けとなった。
1920〜30年代、精神分析のアイディアを視覚的に探究した。

シュルレアリストは欲望と抑圧との間の妥協を「夢の作業」によって調停。願望のある側面を「圧縮」・「置換」し、
視覚イメージにした後、物語(ナラティブ)として辻昧が合うようにイメージを改訂(=二次加工)した。
これは絵画の生産に適用できる?と考えられたが、「こじつけ」になるリスクもあった。

上記の圧縮と置換の心理的プロセスは
言語学でいう「暗喩(メタファー)」・「換喩(メトニミー)」という比喩形象(トロープ)と構造面で似ている。

精神分析の技法的な革新として、徴候としての言語(夢、言い間違い、自由連想でつながっていく患者の言葉)に注意が向けられたことも
この解釈を助けた。
なお、ラカン的なフロイト解釈では「無意識は言語のように構造化されている」とされる。
しかし、どんなアナロジー(類推)も精神分析と芸術との橋渡しは難しいのでは?という意見もある。

そして戦後シュルレアリスムの流れは、
 ・アンフォルメル(ヨーロッパの激しい抽象画)
 ・抽象表現主義(主観的、レトリック)
 ・コブラ(ヨーロッパの前衛運動。原初的。激しいエネルギー)、などに引き継がれていった。

が、そこではフロイトではなく、むしろユングの「集団的無意識」の概念が影響力を持った。(ポロックにも影響を与えた)

フェミニズムアート

1970〜80年代、精神分析のアイディアを政治的・理論的に批判した。「心理的主体とは」という問いを含んでいた。
主体性を認められていないからこそ女性は「周縁的な存在」として最もラディカルな立場から意見を述べることができる、と主張する者もいた。

フロイトとは別のアプローチ

メラニー・クラインは成人であっても前エディプス期の諸段階を持ちうるとした。
そして、両親という存在に対する暴力的な攻撃(と抑鬱的な不安)は破壊と償いの中で揺れ動く幼児期に根源的な空想によって支配されているとした。
彼女が提示した「対象関係論」は間接的にヘンリー・ムーアやバーバラ・ペップワースの受容に関わった。

また、彼女の見解は1990年代に芸術家の関心が欲望の観点から離れて生と死に関する身体的欲動に向けられていったことにも関係があるともされている。
個人的あるいは集団的なトラウマに魅せられて「おぞましい」身体(傷つけられた身体をモチーフとした作品)への関心は強められた。
ヒステリーの徴候を示す女性の身体を病院で衆人環視の中舞台に上げる、といったパフォーマンスも行われた。
(個人的には非常に悪趣味、と思うが、、)

まとめると、、

 ・批評と美術史を考えるうえでは精神分析も役に立つと思われるが制作に役立つのかは不明。
 ・分析に使うサンプル集めの方法は適切だったのか?という疑問が常に付きまとう。(分析する人が恣意的に選んでいないか?・改変していないか?)
 ・(芸術の解釈に精神分析を用いるのであれば)芸術の中で「患者」をどの立場として規定して考えれば良いのか疑問。(作品?作者?観客?批評家?それら全てやその組合せ?)
 ・芸術を治療の代用品にする=分析のケーススタディにしてプロファイリングに使う、というのはまずいのでは?”精神分析芸術(自称)”は危険。

でも、下記①・②を意識すれば、精神分析を手段として適用しつつも、批判する(≒適切に判断する)ことが可能になる。
①モダニズム芸術を共通するイデオロギーの領域の中にある一対象として観察すること。
②モダニズム芸術と関連する諸側面を理解し、その見取り図を提供する方法として理論的に適用すること。

が、こういった試みは込み入ったものになる。理由としては下記の感じ。
 ・精神分析の周りでは常に論争が渦巻いている。
 ・(論旨に合わせて)書き直されている臨床的な著作も多い。
 ・今日では有効でない科学と密接に結びついている部分もある。

私達にとって芸術の解釈の方法として精神分析が有効となるか否かは、、

”わたしたちが適切かつ多産な論をどれだけ多く立てていけるかがその試金石であろう。”
”わたしたちの「理論が崩壊する諸契機」はわたしたちが「精神分析的真実」を手にする諸契機とおそらく切っても切り離せないのかもしれない。”

感想

まぁいきなり弁解から入るのも卑怯なんですが、正直本稿結構キツかった。。(多分今後の章も変わらずキツい思いをする予感 笑)
自分なりに噛砕くことによって本来の意味合いを損ねてはならないという思いと、文書そのままの転記・ツギハギになってはいけないという思いの兼ね合いだとか、
どういった単位でパラグラフを纏めるのが分かりやすいか、、とか。
ちなみに「全ての著作は原本を読むべきである故、本稿のような要約記事は原本に対して興味を持ってもらうために如何に貢献できるのか、が最も重要。」というのが私の私見。

で、感想ですが、確かに人間が作る以上、作品に多少なりとも精神状態が反映されるのは一種の公理と言っても良いかもしれない。
が、私個人としては自分の作品から導き出される自分の心理状態については大して興味がない。

まぁ将来犯罪者とかになったら私が作成している(いた)作品の数々は分析という装置にとって格好の入力になるのだろう。
その場合は著しく捜査関係者の心象を悪くしてしまうような気がする。
あと、本文中に登場する「狂気の真似事」。私はこうした振る舞いには大反対である。

最後に、昨晩この投稿の下書きを終了した後、誤って内容を全削除する事態が発生したのだが、
記憶とフィーリングで何とか再作成した自分を称えたい。笑。

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