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【ちょっと前のこと】支援機関連携 進捗

2回目がようやく決まった。

すでにもう7月も半ばを目の前にしているけれども。振り返りつつ。実は3回目の地域支援を金曜日に控えている、のだが。

前回行われた、東京都の支援である「地域支援」という名の巡回支援。T先生が入っていただいてからすでに大分日が経っていた。そんな中で、「次回いつやるのか」ということが見えないまま、日が経っていく。私の中では焦りがあった。息子は年少さんになる。幼児クラスは縦割りのこの保育園、今のクラスよりも大きなクラスにいきなり放り込まれ、集団活動も増えていく。進級して早々に運動会もある。不安しかなかった。

T先生(病院の担当OT)のご都合もあり、3月末に第2回目の地域支援が持たれることとなり、今回は「お母さんにも事後カンファレンスには参加してもらうのが良い」という病院側からプッシュをかけてもらって、私も参加することが決まった。そこから、T先生、児発の主任保育士兼相談支援専門員のF先生、私の間で「今後をどういう形で回すか」についての作戦会議が何度も行われた。

「行政が旗を振ってくれるのを待っていては、もう遅い」

これが共通した見解だった。では、どうするのが良いのか。F先生は相談支援専門員ではあるけれども、どうしても児発の保育士でもあるため、中立として見てもらいにくい。そこが、全員の悩みの種だった。

「療育と保育は違うもの」

この壁を打ち破りたくても、保育園側が壁を作っていたらそこに入るには、間に立ってくれる人が必要なのに。というジレンマがずっとあった。何度も何度も電話やOT、療育の送迎の合間に話を重ねて出た結論が、「相談支援専門員であるF先生が動きやすいように話を持っていこう」ということだった。T先生から「今後は、F先生に音頭をとってもらって…」と、声をかけていただく。それが1番保育園も受け入れやすいだろう。また、子ども家庭支援センターも自分たちに仕事がくるわけではない、と納得するだろう。

苦肉の策だ。

それでも、前に進めることを考えたら、それがセカンドベターだろう。ということで、話がまとまった。

「見えない」ということの罠

そして、巡回支援が入る直前に、我が家と保育園のミーティングが決まった。中身は、巡回支援で主にT先生にどんなことを見ていただこうか、というのが表向きの理由。さらにF先生が個別支援計画のモニタリングも行いたいということで同席が決まった(心強かった…)。

やはり、伝わらない「一斉指導」が自分に向けられている、ということを認識するのは難しいのだ、というこちらからの言葉。「うちの指導は幼稚園とかと違って、一斉指導ではありません」という言葉と、感じる圧力。海外でお偉い方々を相手にコンサルタントをしていたことのある私が声が上ずっていた(自分でもびっくりした)。

幸いにも年少さんから幼児組に上がるわけだが、その中で「年中の担任ではあるが、縦割りグループのリーダー」という先生が息子についてくださることになり、その先生とは細やかな話ができるのではないかな、という印象を持った。視覚支援の必要性の有無や、言葉の掛け方、移行期間の荒れ具合を考えた対策などなど、具体的な話は、その先生とすることになった。

自発のF先生も、「あの先生とはお話ができる」とちょっとホッとしたように言っておられた。

その場で私が感じたことは、ひたすら「見えない」障害は、理解がされにくいという「罠」だ。自閉症は「スペクトラム(連続体)」というだけあって、本当にそれぞれの出方がある。息子は現時点では同年代の他人にも興味があるし、ぐいぐいと距離を詰めていく。いわゆる「積極奇異型」に当たると私は踏んでいる。発語もある。強度行動障害もなく、「こだわり行動」も少ない。が、「過順応」でもある。

そのため「分かって」行動しているところと「周りについて、ワンテンポ遅れて」行動しているところの差が見分けられにくい。だからこそ専門家の目が必要なのだが、そこが「集団行動できている」と判断され、「私たちも保育のプロですから」的な威圧感をどうしても感じてしまうのだ。

いや、待ってくれ。保育園にいる間はそれでいいかもしれない。卒園してしまったらあなた方はもう手が離れるからいいかもしれない。しかし彼の生涯はそこで終わりではなく、むしろそこから始まるのだ。と思いを致してほしい。と心からその時思った。ここでどう集団生活を彼が経験していくかで、小学校をどんな形で行くか(行かれるか)が決まってくる。通級なのか支援級固定なのか、支援学校か。そしてそれは、中学以降の彼の進路を左右する。この数年が彼にとって、どれだけの大きな重みを持つものになるのか。

心の底から、私は叫びたかった。

発達支援はTORじゃない?

実は、この2回目も、前回の地域支援同様日にちが知らされたのは、数週間前だった。しかも、「病院がお母さんときちんと話し合えというので」という体で前項の話し合いをしましょうということで知らされている。正直「どうして?」という気持ちが拭えない。「嫌々やっている」という感がどうしても私には払拭できなかった。

そんな気持ちを、市の担当の方にぶつけた。どこも旗を振ろうとしてくれない。発達支援って、市の役割ではないの?ファーストペンギンになってもいいから連携の前例を作ろうとは誰もしてくれない。どうして保育園も主体的に関わろうとしてくれないの?私は「支援の歯車」である前にこんなにあちこち奔走する前に母でありたい。そんな叫びをぶつけたのではなかったか。その時返ってきた言葉が私には、衝撃的だった。

「私たちも地域支援に行く義務はない。お母さんの支援に役立つだろうと思っているから行くだけだ。」

唖然とした。これが「発達支援」の現状なのだ。そりゃ、どこに行っても、SOSは届かない。でも知ってほしい。そう言って、発達支援を後回しにすることは、障害児育児で「困難さ」を抱えているお母さんたちが発しているSOSを後回しにすることだということ。そしてそれは、「コミュニケーションの難しさ」を抱える親子にとって助けが少なく、親にとっては虐待不安を煽ることになるのだということも。

2回目の地域支援とカンファレンスー支援体制作り

当日。カンファレンスの時間に私が保育園に向かうと、そこにはすでに各機関の方々揃いつつあった。席の順番的に、神OTの横に座ることになった私は、ワクワクしていた。どんな話が聞けるのか。

保育園が招聘しているので、保育園の生活における息子の行動と今後の対応などが話し合われる。専門的な見地から息子の行動が読み解かれ、今後浮かんでくるであろう課題とそれに向き合うための対応策の提案がなされていく。

そして、肝でもある「今後どうするのか」

神OTから、相談支援専門員でもあるF先生に旗を振っていただくのが良いのではないか?という発議をしていただく。そこから、児発からの「対面でもオンラインででも、保育園と家庭と児発で情報を共有することを月1回くらいのペースでできれば」と、声をかけていただくと、「神OTにも地域支援は入ってもらえるのか」と保育園からの不安げな声が上がる。「もちろん、地域支援を数ヶ月に1回ペースで行い、その時には今後のフォローもあるので市も入っていただく。」とし、今後の大まかなスケジュールが出来上がった。

そしてそれを。その日のうちに議事録に起こした。以前のことを考えれば、どこからも議事録が上がってこないのは火を見るより明らか。ならば書いてやれというのが私の思いだった。「言った、言わない」で揉めてはいけない。絶対に。だからこそ決まったこの体制と、神OTからの提案は残しておきたい。その一念からだ。

…しかし、民間の会社で働いていた私にとっては、多機関が関わる会議って、議事録を共有するのは当然だと思っているのだけれども、それって、ないのか?とずっと疑問に思っている。これはどれだけ招聘機関含め、関係機関が「自分ごと」としてこの会議を捉えているかということも大きく関わるように思うのだが。次回はどうなることか。

とはいえ「ここまできた」という達成感のようなものはあった。前例がない、と言われてきた状態からここまできた。機関連携をするというのはこんなにハードルが高いのか。と、何度も歯軋りした。自分の息子じゃないから必死にならないのか。他人事なのか。と、心の中で吠えた。理不尽な想いもたくさんした。まだ中身としては不完全かもしれないけれど、ここまで来た。まず「開催する」ところまで漕ぎ着けた。

スタートラインに、立った。


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