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優生思想から幸生思想へ ―親ガチャと反出生主義―

「親ガチャ」とは…

 最近、「親ガチャ」なるワードがTwitterのトレンドに入ったようだ。この言葉自体は前からあったのではないかとは思うのだが、どこからか世間に知られる言葉になったようだ。

「ガチャ」と言えば昔はカプセルトイのことであっただろうが、最近はソシャゲのキャラクターやアイテム入手の方法を指すことのほうが多いだろう。ガチャ爆死は身近な恐怖であり、多くの人が利用しながらも必ずしも感謝しているとは限らないというところだろうか。私はそういうゲームには疎いのでこれには多少偏見もあるかもしれないが、親子関係を表す言葉としては不謹慎だという意見も当然あるだろう。

 しかし生まれてくる子供が親を選べないことは事実であり(そうではないとする人々もいるが)、それはカプセルトイやソシャゲのガチャと同じである。しかも最近は親が子供に及ぼす遺伝や環境などの影響が子供の将来に大きな影響を与えるのではないかという研究が出ており、どの親から生まれるかにより自分の人生は大きく左右されるという「ネタバレ」がなされている。どれだけ努力できるかも自分の意志だけでは決まらない、「自己責任」で片づけられていいものではない、そういう気づきが「親ガチャ」というワードへの共感の背景にあるのかもしれない。

 もっとも「親ガチャ」が本来のガチャと異なる点もある。まずガチャと言っても子供が回したわけではない。むしろ親がガチャを回した結果子供ができたというほうが構造的には近いだろう(そのため「子ガチャ」というワードもある)。また、本来のガチャであれば、出るものが外れであろうと価値がゼロ以上にはなるが、親ガチャに外れた場合は人生にデバフがかかる可能性が出てくる。例えば貧困家庭であったり、親との関係に問題があったりすると、子供は生まれた時から人生ハードモードになりうる。日本は「生まれる国ガチャ」では相当な「当たり」であろうと思うが、それでもその中での当たり外れの差は小さくない。

「親ガチャ」が与える影響

 親が子供に与える影響が大きかろうと、それだけで人生が決まるわけではない。親というのも一つのガチャに過ぎず、国・地域や時代、性別や交友関係によっても大きく人生は左右されるし、何より自分の意志や行動がある(とはいえ「新卒時景気ガチャ」の影響は大きすぎる気がするが…)。親ガチャというワードに共感している若者もそれは百も承知であろうし、大多数は親ガチャの引きがよくなかったからと言って全てを諦めるわけではないだろう。結局は配られたカードで勝負するしかない現実を受け入れる者がほとんどだと思われる。

 問題は、彼らが「親」の側の年代になる頃ではないか?

 親になるというのは「子供に親ガチャを強制的に回させる(そして自分を引かせる)」ということに他ならない。親ガチャという概念で親が子供に与える影響の大きさを理解した彼らは、果たして自分がガチャで引かれる側になることに躊躇いを感じないだろうか?自分の親ガチャが外れだったと思うならなおさらである。

 冒頭で引用した記事の中で、有名人たちのコメントに「親が聞いたらショック」「親になったとき後悔する」というものがあった。それ自体は間違いではないと思うが、そもそも「親ガチャに外れた」と思う人は親になろうとするのだろうか?子供をもつことは自分の手持ちのカードを受け継がせることである。自分の今の手持ちのカードを「初期値」として与えられた場合に自分が「外れ」だと思うのなら、子供をもつことで「外れ親」になる可能性は無視できなくなる。あるいは、今はもう親ガチャに外れると子供をもつことも難しいのかもしれない。

優生思想から幸生思想へ

「自分は親ガチャの当たりになれないから子供はもたない」という選択をする人も出てくるだろう。このような「セルフ断種」は優生思想ではないかと指摘されることもある。しかし、おそらくこのような人は優生思想の本来の目的である「遺伝的改良による人類の発展の促進」を目指しているわけではないだろう。ただ自分のもとに生まれることでその子供に不幸になってほしくないだけである。

 このように今「優生思想」と指摘もしくは批判されている事象は、本来の意味での優生思想とはその目的において異なる場合が多い。むしろそれは単純に親の利己的な欲求に由来するものであったり、あるいは子供のQOLを高めてあげたいという願いの結果であったりするだろう。私は後者を「幸生思想」と仮に呼んでいる。

 自分で言葉を作っておきながらまだ確立した概念ではないのだが、生まれたからには幸せになるべきだ、あるいは幸せになれそうな子供が生まれることを良しとする一方で、不幸につながりかねない出生は回避したほうがよい、そういう思想だと思っていただければよい。要は、子供が社会にどう貢献するかではなく、子供が幸せかそうでないかが重視されているのだ。結婚相手を選ぶのに様々な要求をするのも、出生前診断も、現代では優生思想よりはむしろ幸生思想的なものと考えられないだろうか(もっとも、社会への適応度と幸福度がおおむね比例するならば、優生思想でも幸生思想でも子供の良し悪しはしばしば同じような評価になるだろう、それが現代で形を変えた優生思想であるという見方もできなくはない)。

「親ガチャ」も「幸生思想」も現代の個人主義的価値観と関係が深いだろう。昔、優生思想が批判される前は、国が優生思想に基づく政策を行っており、どういう人間が国(共同体)にとって有用かが見られていた。一方幸生思想は自由の産物である。誰と結婚するか、あるいは結婚しないことすら選択権を与えられた現代では、国家の発展のためではなく、自分や生まれる子供の幸せが重視されるようになった。また、自分が親になるとは限らないからこそ、「親ガチャ」という、子供の視点しか含まないワードがトレンドとなるのである。

 昔は大人の責任というのは、人口再生産、すなわち子供をつくって共同体を存続させることであったが、今や子供に対する責任のほうが大きくなりつつあるように感じる。もちろん今も少子化対策が各種行われてはいるが、それらは「個人の自由を制限しない範囲で」の施策であり、現状効果を上げているとは言い難い。一方で「親の資格」というものの基準は昔より上がっているだろうし、子供をつくったならば責任をもって育てなければいけないというのは多くの人が同意するところだろう。

 この「責任」の変化の極みにあるのが「反出生主義」であろう。反出生主義は全ての人間は子供をつくるべきでないという思想である。その結論に至るまでの論建てには幾つかあるようなので単純な話ではないのだが、個人的には幸生思想のひとつの終着点になりうるのではないかと思っている。すなわち、「この世界でよい人生をおくるのは難しい/人生にどんなリスクがあるかわからない」+「不幸になりそう/なりかねないのなら生まれないほうがよい」→反出生主義というわけである。親ガチャの話で言うなら、そもそも出生ガチャを子供に回させなければ当たらないが外れも出ない、生まれなければ後悔もしないというわけだ。

 反出生主義は共同体の存続の方は放棄している、あるいは諦めている。我々の寿命が終わるものであるままに反出生主義が実現すれば、当然人類は絶滅するし、少なくともそのような思想がマジョリティとなった集団は衰微してほかの集団にとって代わられるだろう。それでも自分の子孫にこの世界に生まれてほしくない、さらには自分の子孫以外にもそう思うという人たちが反出生主義を支持している。

 本来的な反出生主義者がそこまで増えなくても、「自分の子供に生まれるのは可哀そうだから子供はつくりません」という「マイルドな反出生主義者」が今後増えていく可能性はあるだろう。それは子供への思いやり、自分にできる最善のことであるかもしれないし、あるいは生まれたくなかったという自分の願いの投影かもしれない。子供にどういう風になってほしいではなく「生まれてきてほしくない」と願うのもなかなか深刻である。しかし「ネタバレ」が進んだこの時代で、有利なカードを配れないならそもそもゲームに参加させないほうがよいという判断が出てくるのも自然なことであろう。

 優生思想はかつてリプロダクティブライツの観点から批判されたが、現代のミクロな優生思想あるいは「幸生思想」はむしろリプロダクティブライツの行使であり、批判するのは容易ではない。もちろん人口再生産が滞れば共同体が維持できなくなるというのは事実なのだが、それが今の時代にどれだけ子供をもつインセンティブになるだろうか?そもそも「親ガチャ」のようなワードが流行る背景には何でも自己責任と切り捨てる社会の風潮があるとも考えられ、そのような社会の維持に協力したくはないと思う人が増えてもおかしくはないだろう。彼らは子供をもたないだけでなく、自分もいずれ安楽死したいと考えるかもしれない。

「親ガチャ」というワードは、親が子供に与える影響が実際どのようなものか示されつつある現在、単なる言い訳以上の意味を持つようになるだろう。その事実を見て「賢く」なった若者は今後、どのような選択をしていくのだろうか。

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