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時間と前後のアナロジー

 ロシア連邦の南の縁、モンゴルと接するあたりにトゥヴァ共和国という地域があります。そこに住むトゥヴァ人が話すのがトゥヴァ語という言語です。『ナショナルジオグラフィック日本版』2012年7月号によれば、そのトゥヴァ語では「後ろに戻る」と「未来」、「前に進む」と「過去」がそれぞれ同じ単語で表されるそうです。すなわち未来は背後に、過去は眼前にあると考えられているということです。

 これは日本人には奇妙に聞こえます。時間を「進むもの」、あるいは「流れるもの」と考えるとき、未来は「前」に、過去は「後ろ」にあるように思われているでしょう。「前」というのは目が向いている方向ですので、未来は「見えているもの」として扱われています。「前向きに」という表現にしろ「僕の前に道はない」にしろ、「前」に未来があることが前提となっています。確かに道を歩くイメージなら、目は前についていますし、体も前に進んでいるわけですので、未来に歩く場所は「前」にあります。

 しかし一方で未来を「後ろ」に置くというのも理にかなっています。というのも、目の「前」にあるのは「過去」だからです。我々が見ている世界は過去の変化の集積であり、もっと言えば視覚が光に頼っている以上厳密な「現在」の世界を見ることはできません(トゥヴァ語が光速の有限性まで考慮していたわけではないとは思います)。

 そう考えると未来が「後ろ」にあるのも納得がいきます。我々が未来を見ることができないのは未来が「後ろ」にあるからです。人間の視界は大体真横までですので、真横が現在、前にあるのが過去となります。

 この考え方だと時間が我々の後ろから流れてくる、あるいは我々が後ずさりしていることになります。「未来」は背後から近づき、我々の横を「現在」となって通り過ぎ、「過去」になって我々の視界の中を遠くへ遠ざかり、そのうち見えなくなっていきます。

 我々は時間を「後ろ」に進んでいると考えると、「道を選ぶ」ということもなかなか思うままにはなりません。就職や進学等での「進路」というのも未来を「前」に置いた表現でしょうが、未来を選択できるとするような考え自体が「未来=前」の言語に依存したものなのかもしれません。

 多くの言語では未来は「前」にありますが、未来が「後ろ」にあるものとする言語は他にもあるようです。我々が当たり前だと思っていることも、言語が違えば全く別の姿を示すのが面白いと思いました。そういえば、日本語でも「先月」「1年前」など過去が「前」にあるような表現もありますね(もっともこの「前」は順序が先という意味でしょうが)。

 余談ですが、「前向きに」と励まされるとき、なんとなく「前へ倣え」を感じてしまうのは筆者だけでしょうか。

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