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グレープフルーツと私

「生一つと、ジンジャーハイボールとグレープジュース一つお願いします」

ある日の飲み会。飲み放題のリストから選んで注文を行う。私が頼んだのはジンジャーハイボール。しばらくして店員さんが飲み物を持ってきてくれた。

「生ビールです」
「ジンジャーハイボールです」
「グレープフルーツジュースです」
店員さんの一番近くに座っていた同僚が全部受け取ってから言った。
「グレープジュースって、グレープフルーツジュースだったんだ……」
私も同じことを思った。と同時に、それを頼んだのが私ではなくてよかったと思ってしまった。


私は、グレープフルーツジュースがあまり好きではない。
昔どこかで飲んだグレープフルーツジュースが苦かったという記憶が頭の片隅にあるからだ。当時まだ子供だった私とってジュース=甘くて美味しいという概念を壊したグレープフルーツジュース。それ以来、グレープフルーツジュースは積極的に飲まないようにしてきた。


だけど少し成長した私はグレープフルーツと別の形で出会う。
それは、ゼリー。小学生の頃、母親が夏休みに毎日のようにグレープフルーツゼリーを作ってくれた。グレープフルーツの果肉をくり抜き、皮を器代わりにして作ったゼリー。グレープフルーツがゼリーに形状変化を遂げたとき、苦味が抑えられたのだろう。それが「おいしい」と思わせてくれた。市販のものより弾力のある手作りのゼリーだけど喉を通るときはちゃんと爽やかな酸味が感じられた。暑い日にさっぱりと食べられるわが家の定番おやつ。今まで敬遠していたグレープフルーツってなんだったんだろうと疑問を抱くようになったのもこの頃からだ。


いつの頃からかグレープフルーツの果肉が食卓に並ぶようになる。
朝ご飯の1品、フルーツとして並ぶグレープフルーツ。起床したての水分が足りていない体全身に染み渡るかのように口の中で弾ける果汁。シャンと目が覚める手伝いをしてくれるグレープフルーツ。なんだ、全然食べられる。


そして今や自らグレープフルーツを購入し、剥いて食べるように成長した。
まず外の分厚い皮を素手で、みかんを剥くのと同じ要領で剥いでいく。一剥ぎするごとに爽やかな香りが台所に、部屋中に充満していく。柑橘系のもたらすリラックス効果を一番近くで感じられるのは最高に幸せな一時だ。黄色い皮だけが剥がされたグレープフルーツはまな板の上に遠慮がちに乗っているように見える。それをまた、みかんと同じ要領で一房ごとに分けていく。
全部で10房程に分けたら今度は薄皮を剥ぐ作業だ。房のかもめのような部分にキッチンバサミを入れていく。そこから丁寧に薄皮を剥ぎ、果実だけにしてタッパーに入れる。綺麗に剥けたときの達成感と快感はたまらない。


純粋にグレープフルーツが食べたいときはもちろん、嫌なことがあったときも、ただただ無心でグレープフルーツを剥くことがある。剥き終わる頃にはちょっと心が落ち着くからだ。もしかしたらグレープフルーツには精神安定剤のような効果があるのかもしれない。
(※個人的な見解である)


昔は苦味が苦手だった。
だけど苦味がなければ問題ない。
それって何だか人間みたいだ。


核の部分はみんなそれぞれの味、果実を持っている。それはきっと甘くてみずみずしい。だけど薄皮が邪魔をする。この人は話しかけにくい人だな、頼み事をし辛い人だな、気難しい人だなと思わせる。めげずに皮を剥げば本当はそんなに苦くないのだけれど、そこまで根気よく付き合ってくれる人が果たしてどれだけいるだろう。


現に私個人の話をすると、話しかけにくいときが結構あるらしい。そんなつもりは一切ないし、できるだけ笑顔でいるように努めているのだけれど、友人曰く「ツンっ」と見えることがしばしばあるそうだ。結果、知らず知らずのうちに敬遠されているのだろう。

もし、薄皮にキッチンバサミを沿わせてくれる人が現れたら、まるっと薄皮ごと受け止めてくれる人が現れたら、毎日がもう少し楽しくなるのかもしれない。ジュースの君も、ゼリーの君も、果実の君も美味しいよ! なんて言われた日には……グレープフルーツに生まれてきてよかったと心の底から思うだろう。そのためにできる努力が何なのか、今はわからない。だけど、試行錯誤をしながらそんな日が来るのを待ち続けたい。


……なんてグレープフルーツに感情移入しながら、今夜もタッパーにストックしているグレープフルーツを食べていたのでした。

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