神様探しが終わった日の青い空
「神様探しの現時点での結論」のとき、次回は神様を探してきた過程を書きますと書いて以来、神探しの道程というタイトルの原稿を、ずっと保管していました。書きたい気持ちは常にあるのですが、書くことが多すぎるので、途中で、こんな自分語り、書いても仕方ないという気持ちに襲われて書けずにいました。
小学生のとき、すごく楽しかった遠足の「作文を書きなさい」と言われました。作文大好きで、この遠足のことは何から何まで全部、書きたいと張り切って、朝、起きた時の楽しい気分から書き始めたのですが、そこで挫折してしまいました。作文を完成させられず、提出できなかったのは初めてで、子供なりにショックでした。その時、担任の先生に「ぜんぶ書こうとするから書けないんだよ。いちばん書きたいところだけ書けばいい」と励まされたのを思い出します。
そこで、直近5年間だけ、書いてみようと気持ちが変わりました。
この5年間も長くなりそうですが、よろしかったら、おつきあいください。
子育ては楽しかったです。小さな会社で何でも屋さんをやるのも自分に合っていました。PTAや町内会への参加も同世代の、いろいろな考え方をする女性と触れ合えて面白かったです。そういう意味で、2017年以前、わたしは仏教の考え方にも守られて、比較的、安定して充実した生活を送っていました。当時のわたしの悩みはただ一つ、大好きな小説を書く時間がとれない!ってことでした。いつかは小説を書いて暮らしていけるようになりたい、と願っていたので。
2017年、会社の状況が変わりました。大幅に業務量が増え、残業時間が跳ね上がりました。いっときは過労死も覚悟しました。心の奥底に、もうすぐ子育てが一段落して、自由な時間がとれると思っていたのに、どうして! という、誰にも言えない不満がたまりました。たぶん、このときの蓄積疲労が、その後に影響したんだと思います。
2018年、人も増えて、少し状況が改善しました。過労死レベルから、ぎりぎり回していけるレベルに変わって、私は余力ができたと勘違いしました。やったー、さあ、たくさん小説を書こう! 繁忙期も元気いっぱいで乗り切りました。なのに、時間ができたとたん、精神的におかしくなりました。小さなクレームに心が傷ついて、そこから立ち直れなくなりました。ああ、これはまずい。二十代の若い頃、経験した鬱の初期症状だ。早めにクリニックへ行こう。メンタルクリニックへかかりました。
確かに薬を飲むと、病的な不安感は薄れましたが、やる気は回復しません。できれば薬は飲みたくないし、中毒の不安もあるいし、少しずつ減らしたいのに、飲んでしまうと罪悪感。そんなこんなをしているうちにもっとも防ぎたかった本格的鬱がやってきました。今なら分かりますが、あの頃のわたしは、いったん全力で休むべきでした。薬を飲んで紛らわせたために、疲労を解消させないまま、さらに疲労を蓄積させてしまったのだと思います。
2019年には「穴ぼこと神様」に書いた世界が到来しました。経験したことのない方に説明するなら、ホラー映画を24時間、強制的に見させられる感じです。生活のすべてが怖いです。記憶力がだだ落ちなので、20年繰り返した仕事ができなくなります。自律神経がおかしくなっているせいか、視力が落ち、耳鳴りがして、お腹の調子も常に悪い。39度の発熱と鬱症状のどちらかを選べと言われたら、わたしは迷わず発熱を選びます。
ここまでくると、休むことすらできなくなります。空白の時間が恐怖なのです。「この役立たず」と罵る自分の声が頭に響くからです。気分転換に小説を読もう、映画を観ようと思っても、小説や映画のなかのちょっとしたエピソードが恐怖心を煽るので不可能です。瞑想も出来ません。心を空白にしようと思っただけで、怖い渦のような何かに襲われました。優しい言葉しか書いてないとあらかじめ分かっている仏教の本を書き写していました。
ルーティンな作業も救いでした。記憶力を必要としない、手順の決まり切った仕事は、ホラー世界から逃れる手段になりました。何もしないで座っていると怖くなってくるので、会社の昼休みには、ひたすら歩いていたのを思い出します。そして、歩道の植え込みの黄色い花や、街路樹の緑に救われました。この怖さは人間だから感じる怖さでしょうから、それを感じない世界に住んでいる植物が本当にうらやましかったです。
始末に悪いのは、今は病気だから、こんなに怖いのだ、という客観的な認識が脅かされることでした。この怖い世界が真実で、幸せだと思っているのは真実に気づいていないから。そして、幸せだった時の記憶は一切、思い出せませんでした。このとき、自殺しなかったのは仏教のおかげかもしれません。死んで終わりではないから、苦しみのなかで死んではいけない。
それでも、2019年の終わりごろには、薄皮をはぐように、少しずつ気持ちが変わってきました。酷暑の終わりの時期、極寒期の終わる頃の、一歩下がっては二歩進む感じ。この調子なら、来年は良い年になりそうだなと思って迎えたのが2020年、コロナの年でした。
2020年年初、やっと鬱が終わったと、当時のわたしは思っていましたが、あれは回復期だったのだと思います。一日おきに、大丈夫な日と駄目な日がありました。そして、2019年は、わたしが駄目なだけで、世界はいろいろな問題を抱えながらも大丈夫と思えていましたが、2020年は世界も丸ごと絶望的に思えました。こんなふうにはならないと思えているからこそ、スリリングで面白かった破滅SFのなかのエピソード、それが現実に起きてくる恐怖。食料がなくて殺し合うような世界が現代の日本に立ち上がってくると思えました。権威主義的な国のほうがコロナの危機にうまく対処できているように見え、世論は二分され、憎しみや嘲りの声が世に満ちたように感じられました。
鬱がよくなったら、小説を書こう。そう思っていましたが、小説を書くどころではありませんでした。ベースとなる常識がある程度は同じ、少々、突飛なことを書いても、批判はされても非難はされない。そう信じていないと小説なんて書けるものではないのでした。わたしは空想的な小説を書きますが、社会状況が厳しくなった時には、すべての文章が政治的社会的意味をもつのだと、初めて思い知りました。
瞑想ができるくらいには回復していたので、毎日、暇さえあれば、瞑想するようになりました。平和な日本に生まれても、社会状況によって、こんなに怖い思いをするんだから、政情不安な国の人たちは、毎日、どんな思いで暮らしているんだろう。これから、日本もどんどん暗い時代になっていくなら、そんな世界に生きていくのは嫌だ。逃げ出したい。いっそ死んでしまいたい。でも、仏教では生まれ変わりがあるというし、死んでも逃げられないらしい。それだったら、悟りなんて、本当にあるかどうかは分からないけど、そこにすがるしかない。死に物狂いでした。
コロナが怖かった2020年4月、身の回りでも確かに救急車のサイレンが多かったと思います。そして、カラスがいつもよりたくさんいて、さかんに鳴き、喧嘩していました。外出自粛になって、繁華街で餌がなくなり、なわばりを変えたカラスが多かったんでしょう。スーパーへ歩いていきながら「こんなに怖い世界でも、幸せに笑っていられる人がいるのかな。もし、いるんだったら、そういう人にこそ、なりたいな」と考えていたのを思い出します。せっかく文章を書くんだから、みんなが元気になれるような言葉が書けたらいいのに、と思いましたが、とっても無理でした。
それでも、とにかく瞑想をして、小説ではなく、思い浮かんだ言葉をひたすら文章にしているうちに、だんだんと精神状態が整ってきました。不安や恐怖の合間に、以前の人生では、最高に嬉しいことがあった時にしか感じなかった幸せな気分を、理由なく感じることが増えてきました。
そして迎えた九月。
その頃には、とにかく自然のなかにいると調子がいいから、と、昼休みに近くの大きな川まで歩くようになっていました。広い青空、川面で輝く反射光、木々の木陰に癒やされて、会社へ戻ろうとした時、耳元で「許されました」という声が聞こえました。青い空に響き渡るような声でもありました。
何が許されたのか、許されなければならないような犯罪や悪事を働いた覚えはありません。ですが、ものすごい解放感がありました。自分はどこかおかしいから、常識を守らなくちゃ、という思い込み、自分は恵まれすぎているから、他の人の役に立たなくちゃ、という縛り、とにかく、物心ついてからずっと背負い続けてきた、何かものすごく重い荷物を下ろした、きつい箍を外してもらった、そんな感覚がありました。
あれから、2年近くがたちます。
いろいろなことがありました。核保有国が戦争を始めるとは思っていませんでしたし、つい最近の元総理の銃殺事件には暗澹たる気持ちになりました。
幸せと感謝を感じる時間が増えましたが、躁鬱体質なので、躁の時期が続いているだけかもしれません。
いつかまた、鬱がやってくることだってあるのでしょう。
それでも、探し続けた神様から呼びかけてもらった喜びが確かにあります。
あのとき見上げた、明るい青い空を、この先、一生、忘れないでいたいです。
(青空の写真、使わせてもらいました。ありがとうございます)
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