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"お笑い"のメカニズム

 少し前だが若手芸人EXITの兼近さんのコメントが話題になっていた。

 40代の中堅芸人がドラゴンボールやプロレスの話で例えても若い子は元ネタを知らず、面白いと感じないから「若い子のお笑い離れ」があると言う。

 テレビやメディアでのお笑いに限らず、身近でもこれと同じようなことはちょこちょこと起こっていることだと思う。会社の上司が昔見ていたCMのフレーズであったり、逆に若者がtwitterやインスタで良く知っている言葉だったり。お互いに知らないから分からない。「世代間(ジェネレーション)ギャップ」だ。

 ”お笑い”も漫才ブームやM-1等からテレビでもジャンルとしてレギュラー化しいわゆる「ひな壇芸人」を目にしない日はないし、それだけに競争も激しいのか「ダブルボケ」や「ノリ突っ込まないボケ」等次々と新しいジャンルの”お笑い”が生まれている。

 しかしトークを基本とした場合の”お笑い”の本質は昔から変わることはなく、その構成要素は不変であるように思う。言い換えれば人はなぜ”お笑い”を見て「面白い」と思うのか、そのメカニズムには普遍的なものがあると感じるのだ。

 私が考える”お笑い”の要素は2つある。

 ①共時性

 と 

 ②意外性

 である。

 この2つの要素は片方だけではだめで両方が上手く備わったときに”笑い”が起こる。十分条件ではないが必要条件だ。

 共時性とは何かと言うと、「同じ経験を共有していること」と言い換えてもよい。同時に一緒に体験していなくても良い。上述のように「同じテレビを見ていた」とか「富士山に登ったことがある」等の体験である。

 特に人が日常的に必ず行う衣食住に関することはわざわざ説明の必要もなく、共時性を持っていることが多い。子供がうんこのネタを喜んだり裸で笑ったりするのは彼らが日常のリアルな経験として触れているからだ。そして食事や排泄等は須らく皆が体験しておりどんな人に対しても共時性のある事柄と言える。

 成長するにつれて体験することにも個性が出てくるため、その後の体験は共時性が万人には成り立たなくなってくる。人は自分が体験してないことを表現されても「ピンとこない」のだ。

 そして意外性も重要だ。人は上述のように共有した体験の話題が思いがけないところで出てくるからハッとして笑う。

 共時性はあるが意外性のない話は単なる世間話だし、

 意外性はあるが共時性がない話は理不尽な展開なのだ。

 したがってニッチな趣味や孤高の経験はなかなか万人には理解を示してもらいにくい。ただし対象とする相手方が同種の嗜好を持っていることが明らかな場合は共感を含め突き抜けた笑いを得ることができる可能性がある。

 もちろん天丼ネタ等出るのが分かっている上で期待して笑うものもあれば、珍妙な動きで笑いを誘う様なお笑いももちろんあるが、トークとしてのお笑いと言うことであれば上述の2つの要素は必要条件だと思っている。

 冒頭の様に「若者のお笑い離れ」という状況になるのは単純に共時性がないために若者に伝わっていないだけではないかと思う。

 そして若者は別段お笑い離れになっているのではなく、単にテレビ等からの「メディア離れ」になっているだけではないか。若者だって面白いと思うことはあるし、彼らにとって上述の要素を満たしたお笑いがあれば受け入れると思料する。そういった層がyoutubeやInstagram、tiktok等別メディアへ河岸を変えただけだろう。

 今や若者は発信されるものに反応し、コメント等を返すことで自ら主体的に共時性を産み出しているのだ。メディアに頼らずとも繋がっているし、逆にメディアは置いてけぼりになっている様に感じる。

 「どうだこれ面白いだろう!」と一方的に制作側の感覚を押し付けて、それが受けなければ『お笑い離れだ』と決めつけるメディアには「お笑い離れ」などと誤魔化さず、お笑いの本質をもう一度見つめなおしてもらいたいものである。

 

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