存在と世界 2

第二:世界とはいかなるものであるか。

1.世界はなぜ存在しないのか

 総体としての世界、全ての存在者を包括する形での、世界は存在しない。というのも、存在しうるもの全て、存在者すべては、世界内に存在する。総体としての世界が存在するのであれば、総体としての世界は世界内に存在することとなるのである。ただし、感覚的確信が示すように、存在者の存在自体は、確認されたものであるし、デカルト的懐疑においても、「私」の存在の確実性は、前提されている。つまり、世界が存在しなくとも、存在者の存在、実在者の存在が否定される訳では無い。

2.世界が存在しないことによっていかなる帰結が生じるか

ただし、日常的、通俗的な生活の領域においては、総体的な世界の存在とは確実で疑いようの無いものとして認識されている。総体的な世界とは、単一で、普遍的な価値を有する包括的な存在者として規定されている。しかし、この場合の「世界」とは、それぞれの個別者が持つ世界観との混同なのである。「虫には虫の、人には人の」世界があると言われることがあるが、この場合、世界とされているものはそのまま、世界観のことである。「世界」というと、そのまま全世界、この世の全てを包括する、という考えが混入されていることとなる。実際のところ、それぞれの個別者が持つ世界観は、決して完全で、一貫したものでは無い。ある領域における世界観と、ある領域における世界観が矛盾することや、世界観が取りこぼした領域、―例えば専門分野外の学問や、全くもって関わりのない界隈のミーム ―、などもある。
 個別者が生活している場、換言すれば、その個別者がその存在を持続させるため、もしくは日常的に生活を過ごすために媒介しているすべての存在者が存在している領域は、無限の広がりを持つ。私が食べるものひとつに関しても、食料の原材料、生産者、販売者、輸送者、それを雇用する使用者……等々、数々の人間を媒介して「私が食べるもの」として私の目の前にある。ほかのものに関しても同様である。私に何らかのかたちで関わる存在者、というのは、私がその存在において媒介している存在者である。そして、私に何らかのかたちで関わる存在者というのは、これもまた何らかの存在者を媒介して存在しているものである。であるから、私という存在者が直接的にしろ間接的にしろ媒介している存在者とは、無限に存在する。しかし、私の意識はこの媒介のうち、限られた存在者の媒介のみを把握し、その範囲内で私の生活している場に意味を与える。これが世界観なのである。注意して欲しいのは、ここではあくまで私は受動的なものであり、行為の領域における私としてではなく、私も含めた、私が媒介する全ての存在者から価値と属性を受け取るという領域に限定された私である。
ここまでの議論をおうと、世界観についてこう定式化できる。
「世界観とは、私が媒介する無限の存在者について、意識が捉えうる範囲で有限化され、意味を与えられたものである。」と。

3.世界内存在は有限かつ無限である


意味は有限である。意味とは、存在者の持つ無限性を制限して、有限性の範囲に制限された存在者についての意味である。ある存在者について「〇〇は〇〇である」という意味があるとする。とある存在者についての意味となりうるものは、無限に存在する。しかし、先に記述したごとく、世界観は有限であるし、私の意識もまた有限である。
そもそも、世界内に存在する全てのものが有限性を持つのである。しかし、世界内に存在する存在者は、無限に存在する。これは、ある存在者が媒介する存在者が無限に存在することの傍証でもある。つまり、それぞれの存在者とは有限でありつつ、存在者一般については無限なのである。ところで、言語とは外化であり、ある種の有限化である。言語は感覚的確信の発見した属性と価値を、外化によって単なる理解可能な存在とするのであるが、意識は、自らの捉えられる範囲において、理解が可能である。当然、われわれは、知らないことについて理解は不可能であるし、加えて、この世の全てを理解できる訳では無い。そもそも、この世の全てを理解した者とは、狂人か、それとも神に近づいた人間かのどちらかである。つまりは、理解とは意識の有限の範囲の中で、表出された言語を自らの感覚的確信における属性と価値に翻訳する行為であるのだ。したがって、言語とは、有限化の作用である。感覚的確信のもつ属性と価値自体には、区別は無い。「単純な属性」とされた規定であろうとも、分節化されたかたちでの属性、有限化された属性である。言語は、感覚的確信の発見した属性と価値という分節化されていない、理解不可能なもの、感覚的なものを分節化し、有限化することによって理解可能なものとするのである。

 4.世界観はいかにして理解が可能か

理解可能な存在とは、言語である。であるから、世界観の理解もまた、言語によって媒介される。加えて、他者による理解においても、自己における理解においても、この原理に従って、言語によって世界観が理解される。しかしながら言語とは外化作用であり、加えて表出された際と受容された際には異なった(有限の)意味を有する。さらに、それぞれの他者における、言語理解を可能とする属性と価値は差異を有しているのだから、私のもつ世界観について、他者が、完全なかたちでの、表出された時と全く同じようなかたちでの世界観の理解とは不可能であるし、逆に、他者の世界観を、私が全く同じようなかたちで理解することも不可能である。ここに、自己と他者との関係性が存在する。自己と他者が同一であるならば、決して関係性は存在しえない。それは単純に、私である私の一部でしかないからだ。しかしながら、自己と他者が相違であるのなら、私は他者に対して関係を(暴力的にしろ歓待的にしろ)取り結ぶことができるのである。端的に言えば、私が他者との関係を取り結ぶことができるのは、他者が私とは異なるからなのである。ところで、自己とは関係性である。具体的に言えば自己とは自己と自己に対立するもの、自己では無いものとの関係性である。私は、私であると同時に私でないものと、全く私とは違うものに対して同時に関係している。無論、他者とは私とは異なるものであるのだから、自己における自己でないものと取り結ばれる関係は、他者と取り結ぶ関係とは異なるものである。自己と取り結ばれる関係において求められているものとは、理解である。対して他者は、強調して言えば無限の意味を有している。加えて、その意味は、私の意識の有限化を乗り越えて、私に直接、無限として到来するものでもある。他者の行為とは常に私にとって意味を見いだせないものである。例をあげて言えば、好意を寄せる人に贈り物をする時、何をあげれば喜ぶのか、という問いに対する答えは自らでは決して確実な答えを見出すことは出来ない。ただ贈り物を送った時の、他者の反応によって、曖昧な形でしか判断できない。しかも考えようによっては、「嬉しくもないのに自分を気遣って、もしくは世間体として」喜んでいるように振舞っている可能性すらあるのだ。他者は、常に私の理解を拒否する。他者は、私に対して理解ではなく、他者自身としての関係の構築を求めるのである。さて、他者に対する暴力とは、私の他者理解の強制である。しかし暴力によってもなお、私は、他者を理解できない。他者との関係に求められているものは理解ではなく歓待なのだ。
無論、全くもって他者理解が不要であるとは言わない。ここで言われているのは、私の意識による、他者の理解というものが、完全に他者を捉えられるものでは無い、ということだ。自己との関係においては、自己理解が、自己を健全なものとするために第一義として必要なものであるが、他者との関係における理解とは、第二義的なものでしかない。他者との関係において最も求められているものとは、まさしく歓待なのである。


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