選択についての補足
選択とは美と倫理の選択では無い
選択とは「美的生」と「倫理的生」の間の選択では無い。選択とは倫理的なものであるから、倫理的行為によって倫理に対立するものを選び取る、という行為は矛盾する。加えて、実存するという事実においては、美的生は選択に入らない。美的生とは空を飛べぬ詩人が、空を飛ぶ鳥から見える景色を、鳥がそう見えているかにも関わらず、そう想像しているようなものである。倫理的生は、空を飛べぬことをそのままに、地上に這うこと、「地曳亀」であろうとすることである。美的に生きているものは、感性的なもの、自然必然性に従って生きているのであり、そこに選択の余地は無い。ただ、倫理的生において、自由、選択の自由が、倫理的なものとしてある。
選択とは選好では無い
選択とは、複数ある選択肢のうちからどれかを選び取るという相対的な、選り好みでは無い。今日の夕飯は肉か魚か、将来ゆく大学は東大か京大か、と言ったようなあいだでの選択は相対的なものであって、キルケゴールの言う選択とは異なる。では、選択において何が選ばれるか。それは自己であり、絶対的なものである。
そう、真に実存するにあたって、彼がいかなる地位にいたか、彼がいかなるものを食べたか、彼がどのような性別であったかということは、この選択において重要なことでは無い。ここでは「絶望 」とされているもの、すなわち自己が必然的にそうなっているところのものを、そうであるにも関わらず選び取る、これこそが選択の肝要な部分である。
さて、キルケゴールによれば、自己とは絶望である。そもそもとして、自己とは「関係に関係する関係」にして、「ふたつのものの綜合」、特に対立するもの(引用においては有限と無限、時間と永遠、自由と必然があげられている。)との綜合である。そもそもこれらのものは対立物であるから、少なくとも簡単にはひとつのものにできないし、「自己とはふたつのものの関係であり、それも関係自身が関係に関係する」という定義からして、ふたつのものがひとつのものに廃棄されるような関係ではないことは明らかである。自己は対立し、決して綜合されえないものが、それにも関わらず綜合されている。ここから、自己が本質的に絶望であるということが分かる。
結論
キルケゴールの「選択」とは、肉か魚か、京大か東大か、という選択ではなく、根本的には美的生と、倫理的生の間の選択でもない。選択とは倫理的であり、選択とは自由である。そして倫理的生の選択において、自己は自己自身を選択しようと試み、そして絶望する。
参考文献
・藤野寛『キルケゴール』
・アンティ・クリマクス著 セーレン・キルケゴール編『死に至る病』
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