倫理と自己

 はじめに

倫理とはなんであるか。我々はいかにして生きるべきなのか、という問題は哲学においてはその草創より重大なテーゼとして取り扱われ、現代においてもその意義を失っていないばかりか、哲学にとどまらず科学、政治、スポーツ、果ては我々の日常生活にまで倫理が求められている。だが、「倫理」という言葉が何を意味するのか、「道徳」や「規範」、「哲学」とは何が異なるのかといった問題は未だ周知されていないように思われる。もし明らかにされていたとすれば、それは私自身の無知のなすところである。思潮界において発見された概念は、市井のうちに広まり、大衆のうちに膾炙するうちに、その概念が本来表すべき所を超えて、あるいは縮小されて使用され、時にはその概念が示す人間的な真剣さや、その概念が本来持っているはずの本質的な意味まで取り払われ、耳障りの良い、体制的な、否定的側面を無視した安直な言葉として使用されることがままある。概念がそうなっていく原因の一つには、我々、すなわち哲学についての専門的教育を受けておらず、ただ己の独学によって、己の哲学的地位を確立したと不幸にも確信しているソフィスト達の誤解も大きい。我々は哲学教授では無いが、かと言って哲学を知らぬ一般人でもない。我々のうち、特に影響力のある人間が誤った理解を、誤ったものであると知らずに発信し、それを受け取った人々がその誤った理解のうちに理解することとなっていくのは、これまでにも多く見られた事柄である。しかも、このことについてタチが悪いのは、その誤った理解に基づいて発信しているものも、その発信された理解を受け取っているものも、どちらも彼をソクラテスであると錯覚していることなのだ。彼は自らをソクラテスであると錯覚しているから、彼自身に批判を加えるものは、彼自身がソフィストであるにもかかわらず、ソフィストなのだ。ソクラテスであろうとするものは、己がソクラテスになれぬことを理解し、己がアテネの法廷においてソクラテスを裁き、死刑判決を下しうるものであることを理解しなければならない。キリスト教の伝道師であるパウロでさえ、初めから敬虔なキリスト教徒であった訳では無い。彼は初めキリストをキリストであると信じず、狂人の戯言であると信じていたのだ。キリスト教を西洋に広め、キリスト教を西洋精神の基盤とさせた男ですら、初めからキリストをキリストであると信じずに、その男自身の手ではなく、キリストの手によってキリスト教へと回心した。であるから、ソクラテスになろうとするものは、己自身をソクラテスであると思わぬほうが良い。パウロの例を出さずとも、そもそもソクラテスはアテネにおいて「シビレエイ」や、「虻」などと呼ばれさげずまれ、とある喜劇作家などは、彼を「狂人」の一種として笑いものにしていたのだ。そのような人物に出会ったとして、果たして一介の「妙に詳しい素人」でしかない我々が、我々の目の前にいる怪しい風体の、奇妙な顔をした男の言うことを信じることが出来るだろうか?、より身近な例を挙げるのであれば、果たしてまともに練習もしたことが無い野球部が、全く練習をしないで甲子園優勝をなすことができるだろうか?全くもってテスト勉強をしなかったものがテストで高得点を取れるだろうか?そして、これまで全くテスト勉強をしていなかったものが前日にテスト勉強を始めたとて、前からテスト勉強を行っていたものより高い点数を取れるだろうか?さらには、前々からテスト勉強をやっていたとして、果たしてそのテスト勉強は継続できるものだと確実に言えることだろうか?スマホ、ゲーム、漫画、テレビ、そういったものに誘惑されないと確実に言えるだろうか?
つまり、私がここで明らかにしたいのは、倫理という言葉に本来示されている概念というのは、一日や二日、まして一時間や二時間で会得できるものでも、一回や二回で会得できるものでもないということである。
最後に、私が読者諸賢に求めたいのは、これから語ることは決してあらゆる学問において妥当なものでも、論理的なものでも、網羅的なものでもないということと、これは私の独創によるものではないるとでも、私が正しい理解において語るものでもないことを理解していただくことである。読者諸賢の中には、このような様式のうち、幼稚な文章、支離滅裂な文章などを読んで不快に思われた方もいるだろう。もしかすれば、私のこの文章こそそのような文章に妥当するかもしれない。であれば、今すぐそのような質の悪い文章など、読まないでいてくれた方がよっぽど倫理にかなった行動だろう。しかしそれでも、この稚拙な文章を読み、この文章を評価してくれる方、より良いものとするために指摘、批判を加える方、その他この文章に足跡を残してくれる方がいるのであれば、私はその方々たち、つまりあなたがたに対して感謝の念を示したい。私のような愚者から感謝の意を示すことは、韓信の故事が示すように不快である事柄かもしれないが、どうかそのことについてはご容赦いただきたい。

第一部 倫理

1.自己について

A.倫理学とはなんであるか

倫理学とは哲学の一分野である。倫理学は人間社会の慣習から現れ、人間の精神のうちに独立した規範として現れるものとしての道徳や、それぞれの人間が選びとり、そしてその通りに行為する「べき」であるものとしての倫理などの概念を取り扱う。倫理学は、その対象としている概念の性質からいって、我々の生活世界、あるいは我々自身に対してひとつの建徳的命題―「汝、〇〇すべし」と言った形での命題―を提示する。であるから、倫理学とは本質的に、自己の変容と、自己の置かれている生活世界の変容とを要求する。倫理学とは本質的に要求的な学問である。
倫理学は、人間が、何かしらの無意識的な要素の影響はあるにしろ、自らの意思によって自ら行動を選択するということを前提としている。倫理学の前提は精神の自由である。倫理学は精神の自由を前提として、精神の自由について、その善悪を論じるのである。また、倫理学は人間の精神(自己)が単独で独立したもの、それ自身として―成長に伴う影響はあるにしろ―自足するものであるとして取り扱う。倫理学は人間の自己を独立した、自由なものであることを前提とする。
ここに三つの性質が明らかにされる。
1.倫理学とは要求的な学問である。
2.倫理学は人間の精神の自由を前提としている。
3.倫理学は人間の精神を独立したものとして取り扱う。

B.自己とはなんであるか

自己とは、キルケゴールが言うように「関係自身に関係する関係」であり、「二つのものの総合」である。自己を倫理の面において捉えるのであれば、自己とは特に、(a)可能性、自由としての無限、時空性、不自由としての有限、(b)自己尊重としての他者犠牲、他者尊重としての自己犠牲という二組のもののうちの(分裂的)総合である。しかし、キルケゴールの語るところとは違って、自己の「本性」なるものが存在するとは考えてはならない。自己を指定する単独のもの、積極的な第三者は現実世界において見出されることは無い。自己自身を積極的な第三者として捉えることは循環論におちいり、神やそう言った絶対者を積極的な第三者として捉えることは、本質的に世界内に存在する自己の本質を世界の外に置くこととなる。自己とはあくまで二つのものの総合のうちにある関係、関係自身に関係するように、他の関係についても関係する関係であり、それ以上に自己を規定するものは見出されない。
また、自己について、自己が存在するという理由、充足理由律は主観的・客観的両方で、妥当なもの、確実なものとしては存在しない。自己について生得的な本質、生得的に目指すべきである本質は存在しない。

C.可能性の無限と時空性としての有限

自己が二つのものの総合として、特に、先述した(a)、(b)の二組の総合であるとするならば、この二組の要素について考察を加えなければならない。
 ・(a)可能性としての無限と時空性としての有限
可能性としての無限とは、端的に言えば、人間の行動の自由である。人間は可能性として、己の望む行動を全て行うことが出来る。「自らに由る」こととしての自由、己自身のみで充足し、己自身のみで、自ら望むことを行動できる、という性質、可能性としての自由である。対して、時空性としての有限は、世界、つまり空間と時間というふたつの性質によって制限される「場」の中にある存在者、世界内存在としての存在者全てが持つ性質である。時空性とは全ての存在者が普遍的に有する性質であり、現存在であることに自覚的であれる存在者、人間についても例外なく適応される性質であり、時空性は自然必然性と同義である。ここで、時間と空間が絶対的なものであるか相対的なものであるか、我々の理性のうちにあるものなのか、それとも我々の外側にあるものなのか、という問題については語らない。それは物理学によって解明される事柄であり、哲学が解明するべき事柄では無い。ここでは現存在であることに自覚的であれる存在者にとって、時間と空間がいかなるものとして捉えられるかについて考察する。そのような存在者にとって、時間と空間は行為する場であり、なおかつその存在者の自由を制限するものとして現れる。例えば、時間性で言えば、我々は同時に二つのことはできないし、一日や二日練習したところで絵が上手くなるわけでも、文章が上手くなるわけでも、スポーツが上手くなるわけでもない。例え絵が上手くなりたかろうと、文章が上手くなりたかろうと、スポーツが上手くなりたかろうと、自己がいくらそう望もうとも、時間性において行為は制限される。そして時間性が我々に対して課す一番の不自由とは、死の運命である。我々は我々自身の死を乗り越えることはできない、かつ我々は他者の死を死ぬことが出来ず、我々自身のうちに、生者のうちに死者の死を経験しなければならない。空間性で言えば、我々は遠くにいる想い人に、今ここで、直接会うことは出来ないし、学校で先生に用事があるにしても、今ここにいない先生に対して、この場で直接用事を伝えることは出来ない。空間性においても、行為は制限される。
そして、そのような存在者にとって、時空とは不可分のものとして通俗的に捉えられる。客観的な、学問的に妥当な形がいかなるものであろうとも、そのような存在者にとって時空は不可分の概念として通俗的に捉えられる。そのような存在者は、通俗的に時間をそれ単独で捉えることがない。時間とは空間のうちでの運動に付随する性質として捉えられる。

D.自己尊重としての他者犠牲と他社尊重としての自己犠牲

(b)について。先述したように、人間とは自由と必然の間の分裂的な総合であり、人間は行動の自由と自然的、必然的な法則のうちに分裂しつつ総合しているのだが、このことは内部的な、内心的な自由と、外部的な、外在的な必然の間での分裂でもある。外在的な必然とはこの場合、他者の存在のことであり、内心的な自由とは自らの精神の自由、あるいは意志の自由である。このふたつの概念は、現実においてすなわち表象においては必ずしも対立するものでは無いが、あくまで思弁の上で、その理念を究極的に推し進めるのであれば、このふたつの概念は必然的に対立する。つまり、我々は他者に対して「他者を所有してはならない」という(一般的)道徳命題を持ち、同時に自己に対しては「自己犠牲をしてはならない」や「自らの意思で行動する」という(一般的)道徳命題を持つ。端的に言えば「他者の尊重」と「自己保存」「自己肯定」ということになる。しかしながらこのふたつの道徳法則は、あくまで理念の上で見るのであれば対立するものである。他者を尊重すること、他者を所有しないことは、理念として追及するのであれば他者を目的として行動すること、自らの意思の廃棄ということになり、究極的に要求されるのは自らの犠牲の上に他者を生かすことである。対して、自らの意思で行動するということは、端的に言えば他者を自己の目的のための手段、道具として使用することであり、他者の所有にあたる。自らの意思を目的として、他者を手段として所有するのである。
このふたつの道徳法則は(b).自己尊重としての他者犠牲と他者尊重としての自己犠牲の分裂に関連する。このふたつの道徳法則の対立はそのまま、この分裂に直結するのである。 端的に言えば自己とはふたつの対立する概念のうちの否定的弁証である。分裂したものとして、それぞれの別のものとしてあるひとつのものとして成立される、否定的な総合が自己であり、否定的弁証としての自己である。

E.自己がとる態度

この否定的弁証に直面して自己がとりうる態度とは、端的に言えば絶望である。ここではキルケゴールとは違い、絶望を「自己になろうとしない絶望」や「自己になろうとする絶望」というふうには分類せずに、いくつかの類型と性質を提示することによって絶望について示したいと思う。
まず第一に、人間は常に絶望している。たとえ自らが絶望しているとは気づいていなくとも、自己が分裂的な総合である以上は、人間は絶望状態にある。分裂について知らないこと、これもまた絶望である。通俗的な時空のうちに頽落し、自らの現存在性と関係性、そして自らの時空性について無自覚であるもの、これもまた絶望のうちにあるのである。第二に、絶望している人間は逃避か立ち向かうかのふたつの態度を選択する。先程あげた絶望に気づかない絶望とは、無自覚のうちに絶望に対して逃避を選択したことへの絶望とも言える。さて、逃避するものも、立ち向かうものも、どちらも絶望している。自己が自己である限り、人間が人間である限りにあって、自己とは絶望である。
第三に、自殺は絶望の回避策では無い。自殺するものは絶望の末にそれを選択したのであるが、自己のうちに選択すること、これ自体が自己のうちにある以上、自殺もまた絶望であり、自殺することによって自己は絶望から回避される訳では無い。むしろ自己のうちに主観性という意味での自我が失われる、自己という概念が時空性による制限から緩められることにより、自己の絶望はより深く、長期のものとなる。


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