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飢餓と飽和、厭世への抵抗

目の前の食事を鷲掴みにして、口の中に押し込む。許容量を超えた食物に、吐き気がこみ上げてくる。
くるしい。涙がにじむ。 これ以上は食べられない。
けれど、私の手は止まらない。餓えているからだ。飢餓感は私の手を動かし続ける。生ぬるくべちゃべちゃとしたものを自分の指がかき集めていく、その光景を、くるしい、と思いながら、私にはどうすることもできない。飢えに支配された指と、はちきれそうな腹。くるしい。食べても食べても飢餓感は収まらない。胃に穴でも空いているんじゃないか。苦痛に目を細めながら、また私は口を大きく開ける。

……どうだろう。臨場感はあっただろうか?ここまでの文章は、単なる私の心象風景だ。 飢えと飽和というものは、両極にあるように思える。だからこそ、油断してしまうのだろう。両極にあるそれらがまさか同時に襲い掛かってくるなんて考えもしないのだ。

あなたは自分には関係ない、と思っているかもしれないが。残念ながら、これはあなたにも経験があるはずの事象である。
例えば。暇をつぶすために、あなたはゲームをしている、としよう。どれだけクリアしたゲームを積み上げて行っても、あなたは満足することができない。ゲームを楽しむためではなく、暇をつぶすためにゲームをする限り、あなたは飢餓感から逃れられないのだ。しかも、暇をつぶすためにゲームをし続けることはやめられない。はちきれそうになりながら食べ物を喉の奥に押し込み続ける、先ほどの心象風景の私のように。

ダニエル・カーネマンあたりが既に言っていそうだが、人間はすぐに意味を求めてしまう。過去の後悔に、理不尽な痛みに、ダイスロールの結果あなたを襲ったに過ぎない不幸に。 過去の苦痛は、栄光ある未来のためだと思いたいのだろう。理解できないとは言わない。けれどそれは、終わらない飢餓への落とし穴でもある。幼少期の地獄に意味があってくれ、という願いは、願いそのものが純粋であるがゆえに、無間地獄への切符だと気づきにくいのではないか。
必ずしも皆が私のように悲惨な幼少期を過ごしたとは限らないことはわかっている。あなたは幸運にも、衣食住の心配と精神的な負荷とは無縁の幼少期を過ごしたのかもしれない。あるいは私とは似て非なる地獄の中に身を置いていたのかもしれない。
いずれにせよ、私の観測範囲では、その地獄、その苦痛はなにがしかの目的意識を刻み付けているように思われる。自分は幸せにならねばならない、という呪いを自らに課している人を見たことがあるし、ほかならぬ私も、世界は美しいものでなくてはならない、という呪いを自らに課している身だ。
まずは、あの地獄には何の意味もなかった、と、魂の芯から理解する必要があるのだろう。誰かが何かの欲を満たしたかっただけ、それこそ単にダイスロールの結果に過ぎないのだ、と。

これは私の好きな小説の主題なのだが、「身は無間地獄にあったとしても、心は桃源郷にある」ことが肝要なのかもしれない。人は退屈する生き物で、意味を認めたがる生き物で、つまり、終わらない飢餓と飽和、無間地獄に落ちる生き物なのだ。飢餓と飽和に陥っていることに気づいていないのは論外としても、陥らないようにしよう、というものでもないのだ、きっと。未然に防げるものでも、防ごうとするようなものでもない。すでに私たちの身は、無間地獄にある。そこから逃れたいなら、きっと、輪廻転生でもして人間以外の生き物になるしかないだろう。だから、すべきことは、逃れようとすることではない。身を無間地獄に置きながら、心を桃源郷にするためには、どうすればいいか、という問いこそが重要ではないかと思う。畢竟、私たちには、考えることしかできないけれど。

少なくとも私にとっては、そういうことを考えることが楽しいから、考えたいと思っている。考えたいから、考える。これが、桃源郷への第一歩なのだろう、とぼんやりと思う。

……言い忘れてしまったから言っておくのだけれど、最初に書いた心象風景は、私にとっての読書の光景だ。どれだけ本を読もうと、私は満足できない。読書というものが私にとって、厭世に抵抗するための唯一の行為、世界の美しさを吸うための行為である限り、満足感は生まれないだろう。
生きることなどもうとっくに飽いている。そんな厭世感が、生まれてからずっと私の隣にあり続けている。それに引きずり込まれないように、私は、いつまでも飢えを抱え、飽和している器に注ぎ続けるような行為であると知りながら、本を読むことしかできない。

それでも、考えるために考えたいから、陶然とした表情を浮かべながら、ページを繰ることだけはやめられないのだ、と。

ただ、それだけが私にとって確かなことなのだ。

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