「好き」を語る限界の話

好きなものの話がしたかった。


私は普段「好きなもの」をテーマに1000文字以上の文章を書く、という課題を自分に課している。
飽きっぽい性格にも関わらずなんとか毎日続けられており、昨日でちょうど20日連続投稿を達成したところだ。
「VTuber」「数学」「寿司」「ゲーム」「音楽」などなど。これまで何だかんだ様々なジャンルの「好き」を記してきたし、これからもするつもりだった。

だがモチベーションが保たない。

シンプルに好きなものを語るのには体力がいる。
自分の好きなものに泥を塗らないように、できる限り自分の好きが誰かの嫌いにならないように、細心の注意を払いながら書いている。
普段は好きなことを語る楽しさでごまかせているが、時々どうしても揺り戻しが発生する。それが今だ。

特に今日はやばい。
一応通常用のネタストックとは別に、どうしてもやる気が起きない時のために、「焼肉」とか「一人回転寿司」とかみたいな頭を空っぽにして書けるネタ専用ネタ帳も用意しているのだが、今はそれすらも書く気力がない。

手詰まり。
もうどうしようもない。
無理をしすぎて好きなものを語ることが嫌いになってしまっては元も子もない。本当はあまりやりたくないのだが、自分のためにも我儘は言っていられない。



今日は好きなひらがなの話をします。

IQ3くらいの話をします。シリアスな話を想定していた方は危険ですので直ちに避難してください。本当にひらがなの話しかしないので。

あ、明日からは普通の記事に戻ります(多分)。


「ぬ」

好きなひらがなを聞かれて「め」を答える人は多い気がする。
曲線がチャーミングだし、2画の割にとても情報量が多く感じる。お得感がすごい。

だが私はどちらかというと「ぬ」の方が好きだ。
最後に勢い余ってもう1回転してしまうお茶目さが可愛い。

文字の響きなども相まって「気持ち悪い」「ヌメヌメしてそう」という印象を抱く人もいるかもしれないが、それは風評被害である。
「ぬ」は可愛い。
「め」の亜種みたいなノリで書こうとすると何故かうまく書けなかったりするそのツンデレ感も相まってとても可愛い。
もう少し「ぬ」が市民権を得てもいいんじゃないかなと心から思う。

「す」

「す」は個性を映し出す鏡だと思う。
小学校の先生や習字のプロが書く「す」はとても美しい。すらっとしていてとても格好いい。ひらがな界のトップモデル。

でも小学生が書く大きくて元気な「す」も素敵だし、
私が書くとなってしまう、横に潰れた「す」もそれはそれで愛おしかったりする。
逆に、適当に書かれてつむじ風みたいな姿になってしまった「す」を見るとちょっと悲しくなる。

「す」はその人の個性を映し出す鏡なのだ。
ふと目の前に表れて自分の見え方を再認識させてくれる「す」は、とても優しい心の持ち主だ。

たまにはありのままの「す」の姿も見せてほしいな、とも思うが、それは贅沢だろう。

「あ」

母性を感じる。ひらがなを象徴する文字に恥じない柔らかさと包容力である。

とにかく丸い。言ってしまえば「め」に横棒がついただけなのにここまで丸みが強調されるものなのか。「お」とはえらい違いである。
どのようなフォントでも安定して持っていてくれるその包容力にはとても安心感を感じる。
かっこよく書こうとすると結構難しいという点も、前であれこれするのが苦手な、奥ゆかしく優しいお母さん感をさらに補強しているといえるだろう。

様々な問題が蔓延りどうにも生きにくい世の中。
改めて、「あ」の限りない母性に包まれてみるものいいかもしれない。


あと五十音の一発目とも思えない筆記難易度も最高。
優しい顔して小学1年生を千尋の谷に突き落とす鬼畜。そのギャップとてもいいと思う。

まとめ

本当にすみませんでした…………。

明日からはまた今まで通り頑張ります…………。

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