案外曖昧な「数学」の世界
好きなものの話をしよう。
例えば今日は、「数学」の話をしよう。
私は数学が好きだ。
得意か苦手かで言えば圧倒的に苦手なのだが、それでも好きだ。あの論理的かつ綺麗に議論が展開されるあの感じが好きだ。
繰り返すが得意か苦手かで言えば超苦手である。
一方で、「数学」というワードに拒絶反応を起こす人は多い。
私の周りにもたくさんいて、そういう話を聞く度に私は悲しくなる。
なんだかとにかく「数学はお堅い」なんてイメージを持たれている気がするが、決してそんなことは無い。
「数学は何の役に立つのか」みたいな話は私よりずっと強い数学の民たちが何百人もしていると思うので、私はちょっと違う視点で数学の魅力とキュートさを語っていこうと思う。
なお、私は理学部数学科でこそあるものの、留年は愚か2留の危機に瀕しているクソザコ数学徒である。
この記事も厳密さより分かりやすさと感覚を優先するため、より詳しく正しい数学に触れたい人は、ぜひ他のつよつよ数学徒の記事や専門書に触れてほしい。
この記事を鵜呑みにするのは危険である。
「定義」と「定理」
数学において重要な要素に「定義」と「定理」というものがある。
多くの数学嫌いを生み出したであろう「方程式」や「微分積分」などの計算はこれらの副産物とも言えるもので、ベースはこれら「定義」「定理」の積み重ねで数学は成り立っていることが多い。
「三平方の定理(ピタゴラスの定理)」という言葉くらいなら聞いた事がある人が大半だろう。
これも数学における積み重ねの産物といえる。
では、その「定理」と「定義」の違いはなんだろう。
簡単に言うと「証明が必要か否か」である。
「定理」をルールや公式として行使するには、「定義」や「証明済の定理」を使って、それが正しく成り立つことを証明する必要がある。
逆に「定義」に証明は不要である。
なので数学では「定義」を元に手近な「定理」を証明し、それらを使ってまた新たな「定理」を証明する……というサイクルを回しながら世界を広げていく。
……では、証明の不要な「定義」はどうやって決めるのだろう?
案外曖昧な「定義」の世界
「定義」は、皆がそれを「定義」と認めることで決まる。
……「ふわっとしてる」と思っただろうか?
そう。理系の最も奥底に位置する数学は、実は意外とふわっとしたところから始まる。
1+1=2なのは、皆がそのようになる定義を定義として採用したからだ。
正三角形が「3つの辺が等しい三角形」なのは、そのような三角形をそう呼ぶという定義を皆が認めたからだ。
なので実は、「定義」というのは誰でも自由に提唱できたりする。
貴方が「1+1=3」になるようなルールを考えたのならば、それを定義とすることもできるのだ。
曖昧な「定義」を縛るルール
勿論、だからといって皆が言う適当な「定義」を無尽蔵に認めていたら数学の世界は崩壊してしまうだろう。
けれど実際にはそのようなことはなく、数学という学問はそれはそれは美しい論理体系を保っている。
これは良くない「定義」を切り捨てるルール・自浄作用のようなものが働いているからと私は思うのだが……ここで1000文字になってしまった。
数学を数学たらしめる「定義」への縛りについては、また明日書いていこうと思う。
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