人には、他人を「誤解」し、他人について「思い込み」を抱く権利と自由がある
相手に「正確に」気持ちを伝えたい。
他人に「ほんとうに」わかってもらいたい。
他人の気持ちや意図を「誤解」したり、勝手な「思い込み」で攻撃したり非難して、相手を傷つけたりしたくない。
これらの感情は、全く自然なものだと思います。
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しかし、私はこれを機会に、敢えてひとつの「逆説的な」提案をしたいと思います。
他人を「誤解」したり、勝手な「思い込み」でものごとを判断して「自己完結」してしまう自由と権利は万人に保障されねばならない.......と。
「お互いに相手の真意を理解しあえなければならない」 これは確かにひとつの崇高な理想かもしれない。
でも、この「ドグマ」に縛られた時、むしろ人と人との間に果てしのない悪循環が始まる危険もあるのではないか?
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そもそもあなたは自分の「気持ち」や「行動の意図」をすべて正確に理解している自信はありますか?
ないでしょう?
それなら、他者の「ほんとの気持ち」や「動機」「意図」とかについて「正確に」「偏見なく」捜し求めようとすることは、はじめから果てしない泥沼に陥って当然ではないでしょうか。
人とは、自分や身近な人や他人や世界の森羅万象について、適当なところで「思い込んで」いることで、はじめて「安定した自我」を抱いて日々を過ごせる程度の、不完全な生き物でしかないのではないか?
もちろん、「思い込み」を乗り越えて、「現実」と出会おうとすることにより、確かにその人の他者認識や世界観や相互理解を深まることもあります。
しかし、それですら、『その人の』「体験過程」のステップが一歩前に進んだということに過ぎない。
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もとより、いわれのない差別や偏見や、ありもしないデマで苦しまされ、場合によっては殺されるにいたった数多くの人々の歴史、そして今も続く抗争は悲しいものであり、そうしたことが生じないようにするための相互理解への努力は大変貴重なものです。
しかし、実は、 「自分の理解には結局限界があり、どこまで言っても一面的なものでしかありえないのかもしれない」 ということを認められる人が増えた時、はじめて人は、何とか「共存」できるものなのかもしれません。
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相手の心を、自分の気持ちへの「的確な理解」に向かわせようと「強制」し始めた時、人は結局その人の心を乗っ取り、その人の心を自分の心の「延長」として扱おうという「悪魔の誘惑」の領域に踏み込んだのかもしれない。
「誤解を解く」ことを時には諦めること。
「相手の意図を誤解したままかもしれない形で相手との関係を終わりにする」ことで、自分が「加害者」になったままになることを引き受けること。
これしか、無駄な傷つけあいのない、平和的な「別れ」と、事態が自然と収まるところに収まる形での「再出発」をはじめられないことは、あるという気がするのです。
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