私たちは身体を通して環境と相互作用している。「こころ」とは身体の働きの上に乗っかった仮像であるに過ぎない。

人間は脳神経系の中枢の統御にあるのみならず、内蔵や筋肉、皮膚感覚を含む「身体性」を持った存在として外部環境と相互作用している(ここでいう「外部」環境とは、胃の内部や肺の内部の空気も含む)。

いわゆる「こころ」の問題というのは、そうした相互作用の中で浮かび上がる幻(ファントム)としての「心像」の領域に過ぎないという視点も必要かと思う。#神田橋條治

例えば、 #パニック障害 の場合、単に脳中枢系の自律のバランスが崩れた「から」外界からの刺激に過敏になるというわけではなく、実際に群衆の中で「身体に」生じる過剰な外部刺激を受け止められなくなった「から」脳中枢系がバランスを崩すという、逆方向の相互作用的視点が重要なのは確かだと思う。

私は地方出身者で、関東に長期間在住したが、現在は故郷に帰り、たまに東京に行く人間だから痛感するが、あの駅や車内の人混みで「普通の神経」保っていられることに慣れていられる「普通の」人たちのほうが、ある意味で「異常な」環境に順応できる訓練を受けた人たちだと思う。

つまり、パニック障害を、外界に対する「正常な」反応をしている人たち、という視点もあっていいと思う。パニック障害の治癒とは、敢えて、都市生活上やむを得ない過激な環境にも「順応」できるように「人工的な」訓練を施そうとしている、というような視点。

ある意味では、脳内中枢こそ、人間の心身をコントロールする要であるという「思い込み」をいったん外してみるのも面白いのではないかと思う。

胃の内側にどういう食物が入ってくるかという外部からの刺激に対して胃の粘膜がどのように反応するかという末梢のメカニズムが、脳中枢を統御している、とか。

ある意味で、天動説と地動説の逆転、末梢の内蔵等の器官の(外部・内部)環境との相互作用が伝播するものとして、脳の働きを見てみるのである。

そしてこうして臓器と環境との間で生じる相互作用の失調が、結果的に人の「こころ」の領域に影響を行使することも多い・・・恐らくこうした発想法は、各内蔵器官の治療の専門医とかにとってはかなり普通のものではないかとすら思うのだが。

筋肉や内臓といった「末梢器官」の方が外界との相互作用を直接している要であり、脳はそうした諸器官からの情報をとりまとめる中継地点に過ぎないという発想。

高等生物でないほど脳が非常に小さな単純な器官になる。

例えばウニのどこに脳があるのか?それでもウニは環境の変化に臨機応変に順応する。

そういう原点に立って「こころ」の作用をみなおしてみればどうなるか?

「身体」と環境との関わりを安静な状態に持っていければ、「こころ」の問題のかなりが解決してしまう(少なくとも、「こころ」の問題を円滑に解決していく前提である)ということはあたりまえであろう。身体を安全な状況におけない(虐待等を含む)から精神も安定しようがないという視点。

実際に環境と身体の状態を安定した安全な状態に持っていけても、「こころの症状」(例えば些細なトリガーによるフラッシュバック)が現れるというのは、迫害的環境への身体の「正常な」恐慌反応条件反射として成立してしまっているからであり、その条件反射を脱感作する必要があるということになる。

私自身は全然 #行動療法 の専門家ではないのだけれども、「置かれた異常な環境への『身体の』正常な反応」の残余が、かえって、すでに安定しているはずの環境への適応を阻害するというパラダイムでとらえた方がシンプルであると感じる面は大きい。

行動療法というのは、刺激と反応に人為的な影響を与えて、全体主義的社会へ適応できてしまうロボットを生み出すものといった危険な面もあるものとしてイメージされることもあると思うが、適切に活用される限り、「動物」としての人間が本来持つ環境へのしなやかな適応能力の回復を図るものなのだと思う。

実はこうしたことが人間の心身の当然の機序であるからこそ、精神科医は精神科医としての修行以前に、様々な診療科の身体疾患に関する専門的な研修の中で、ベーシックな医療モデルと治療スキルをひととおり知っていなければならない。

そうでないとただの精神療法マニアか脳科学主義的薬物療法の信者になる。向精神薬の身体への反応は「副作用」ではなくて、むしろ当然の反応なのであり、精神症状への作用のほうが「随伴的」という見方もあっていいと思う。

例えば、ドグマチールは本来胃薬として開発されたものであり、統合失調症やうつ病にも一定の働きを持つものであることは後になって「発見」されたという経緯がある(今日ではこうした精神症状の治療薬としての選択肢としては順位が低いが)。

およそどのような身体の、そしてこころの病でも、少なくともその急性期(命を取りとめるだけの緊急処置等を含む)の治療を経た後は、その人に悪影響のある環境からいったん引き離し、落ちついた安眠が保証できる環境で休んでもらえる状況を作り出すことで、生体のホメオスタシスと自然治癒力を徐々に引き出すことがベースラインとなっているわけである。薬物等は、こうした安静な環境のもとで、はじめて本来の効能を発揮するものであろう。

そうした「環境」の構成要素として、careする人と病者との安定した関係性が重要であることは言うまでもないが、これは身体病であるか、こころの病であるかに関係なく言えることだろう。

・・・まとめれば、身体病にも、いわゆる「こころの病」にも共通する、「異常な環境への『正常な』身体的反応」が、かえってその後の「通常の」環境への適応を阻害するというモデル、そして自然治癒力をベーシックラインとするモデルを延々書いてみたが、これは医者だけではなく心理カウンセラーも馴染んでいい思考実験だと思う。

更に言えば、恐らく #心理カウンセラー においても、「純然たる身体病を含む」医学的治療に関する一定水準の知識は、必須の「教養課程」として履修する必要があるのではないか、ということになる。

フロイトの、口唇期、肛門期、男根期、潜伏期、性器期という発達段階モデルには、独断的なところもあったとは思うが、ひとつだけ彼の後継者(分派して行った人たち)が見失って行った重大な貢献があるとすれば、それは、具体的な「身体器官」を通しての「体感感覚」モデルだったという点かと思う。

#フォーカシング というのは、実は「身体」との関係性を自然な状態に回復させることを習慣化するための技法体系であるとも言える。

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