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ロベルト・シューマン バイオリン協奏曲 遺作

1.遺族に「抹殺」され、ナチスに政治利用され……

 シューマンがバイオリン独奏の曲を手がけるようになったのはごく晩年になってからである。編曲ものを除くと、何しろ作品番号のないものを入れても5曲(数えようによっては6曲)しか存在しない。

 すなわち、

・バイオリンソナタ第1番イ短調Op.105
・バイオリンソナタ第2番ニ短調Op.121
・バイオリン独奏と管弦楽のための幻想曲Op.133
・F・A・Eソナタ(ディートリヒ、ブラームスとの合作。シューマンは第2・第4楽章担当)
・バイオリンソナタ第3番イ短調( F・A・Eソナタをシューマン一人の作品として改作したもの)
・バイオリン協奏曲ニ短調


以上ですべてである。

 念のために言うと、バイオリンの小品として演奏会で頻繁に取り上げられる有名な3つのロマンスOp.94(特に第2曲は通俗的人気を誇る)は、シューマン自身バイオリンとピアノによる独奏も可と楽譜に明記しているが、本来はオーボエとビアノのための作品で、演奏効果もオーボエによる方が実は遥かに高い。

 前述の5(6)曲は、すべて1851年から1853年の間に書かれている。ちなみにシューマンのライン川への身投げは翌年の1854年、エンデニヒの精神病院で生涯を閉じたのは1856年である。1854年のピアノ独奏のための創作主題による変奏曲(この曲は今回取り上げるバイオリン協奏曲と因縁が深い)が、実質的にシューマン最後の完成された作品であることからすれば、これらの作品はすべてシューマンの作曲家としての最晩年の作品群と言って差し支えない。

 シューマンがこうしてバイオリン・ソロの曲に取り組むには2人のバイオリニストの刺激があった。


 一人は、親友メンデルスゾーンが指揮者をしていたライプチヒ・ゲバントハウス管弦楽団のコンサートマスターもつとめていたフェルディナンド・ダーヴィトである。この人物はメンデルスゾーンのあの有名なバイオリン協奏曲の助言者・初演者としても知られているが、彼がシューマンにバイオリン曲の作曲を強く勧めたことが、バイオリンソナタ1番と2番の作曲の引き金となった。バイオリンの技巧についてはピアノ曲ほどの経験がないシューマンはかなりの程度ダーヴィトの助言を受け入れつつ作曲したようである。これら2曲は当然のようにダーヴィトのバイオリンとクララのピアノ演奏で初演され、作品は2人からも高い評価を得ている。

 これらのソナタの評判がひとつの引き金となってシューマンと親交を深めるようになったのが、当時まだ20代、後に19世紀後半から20世紀初頭にかけてドイツ最大のバイオリニストと謳われることになるヨーゼフ・ヨアヒムである。

 ヨアヒムはまずはシューマンにバイオリンとオーケストラのための協奏的作品を委嘱した。


 ヨアヒムがシューマンに宛てた、「あなたも、ベートーヴェンの例にならい、室内楽作品を除くとなかなか弾く曲に恵まれない哀れなバイオリニストたちのために曲を書いて下さるべきです」という何ともへりくだった文面の手紙が遺されているようだ。


 シューマンはこのヨアヒムの求めに応じて、バイオリンと管弦楽のための幻想曲ハ長調Op.131を作曲する。草稿をヨアヒムに送ってバイオリンの技巧に関しては自由に加筆して送り返してほしいと頼んだくらいにヨアヒムの期待に応えようとしていたようだ。


 この協奏的「幻想曲」の初演はヨアヒムの独奏、シューマンが常任指揮者を務めていたデュッセルドルフのオーケストラで、シューマン自身の指揮で行われた。この当時シューマンはデュッセルドルフの歌劇場の演奏者や歌手たちから指揮者として不的確という烙印を押され、自作以外を指揮する権利をすでに取り上げられていたが、若き名手ヨアヒムの人気と演奏のすばらしさもあったのだろうか、この曲の初演に関しては好評だったらしい。


 この幻想曲は、バイオリン協奏曲以上に、今日その存在を忘れ去られているが、初演当時は聴衆にも好評で、委嘱者たるヨアヒムも賞賛する出来映えの作品だったのである。


 曲は単一楽章からなり、メンデルスゾーン風の短調の楚々とした導入部から、チェロ協奏曲イ短調Op.129の終楽章を思わせるソナタ形式の快活な主部に至る、なかなかの佳曲である。今日の耳で聴いても、バイオリン協奏曲はなじめなくてもこの曲なら……という人は少なからずいるのでないかと思う。しかし私が現時点で発見できたCDは2種のみである(4節参照)。

 この「幻想曲」の好評と、シューマン自身が演奏会でヨアヒムの独奏するベートーヴェンのバイオリン協奏曲に感動したことが、引き続いて本格的なバイオリン協奏曲の作曲を決意させる。

 シューマンは曲を書き上げるとまたもやヨアヒムに曲を送って助言を請うた。クララと同席してヨアヒムがオーケストラで試奏してみることにも立ち会ったらしい。この時点ではクララもヨアヒムもこの曲をかなりの程度評価していたのだ。この試奏の直後、ヨアヒム自身、「あの時は指揮者としての仕事が多忙で腕を使い過ぎて腕が疲れていたのでうまく弾くことができなかったのです。でも今ならあの終楽章のポロネーズをもっと堂々と演奏できます」などと書き送っている。ただしシューマン自身独奏部を更に修正する必要はこの試演奏の時に感じたらしい。

 だが、結局この試奏の年にロベルトはライン川に投身自殺未遂するところまで行ってしまうのである。

 ヨアヒムはその後もこの曲を演奏せず、結局楽譜はヨアヒムの遺言で、死後プロイセン国立図書館に寄贈され、作品はそのまま更に数十年の眠りにつくことになる。

 ヨアヒム自身のみならず、ロベルトの未亡人クララや、クララと非常に親しい関係にあったブラームス(ヨアヒムはこの2人とも2人が先に死ぬまでずっと親密だった)がこの作品の存在を知らないわけではなかったようである。しかし、シューマンの死後クララ自らの監修でシューマン全集の楽譜が出版される際も、このバイオリン協奏曲は黙殺される。

 なぜヨアヒムやクララ、プラームスたちがこのようにしたのかは伝記的な謎のひとつである。クララたちがシューマンの生前には未出版の作品の中から、その後出版していい作品とそうでない作品を「選別」していたことは明らかである。現実にはシューマンの死後十数年後にまで、作品番号つきの作品の出版は継続されているのだから、バイオリン協奏曲のような大曲を出版するつもりがあれば当然していたはずである。

 バイオリン協奏曲の「黙殺」について、一般にいわれている仮説は次の2つである。

1. この曲は独奏バイオリンが高度な技巧を要求する割には演奏効果が上がらないことをヨアヒムが嫌ったのではないか。

2. この作品の中に、精神障害の影響の現れの強さをクララたちは感じ取ったのではないのか。

 問題はこのうちの後者の仮説である。ブラームスとヨアヒムは、晩年のシューマン家に頻繁に出入りしていたため、自殺未遂以前でも、世間一般の人が見ることができないような、ロベルトの精神状態が悪いときの惨状を目の当たりにしていたようだ。


 2人は、シューマンが自殺未遂を犯してエンデニヒの精神病院に入院した後も、決心が付かないクララに代わって何回か病院を訪問している。調子がよくて一緒に院内の庭を散歩したりバッハやパガニーニの編曲などにいそしむ姿に巡り会えたときもあったが、ひどい状態の時にもぶつかったらしい。病状などもクララの代理として、クララには内密にした内容すら医師から聞いていた形跡がある。

 クララはシューマンが亡くなる少し前の小康を得た時にやっと決心が付いて一度だけ病院を訪問して、ロベルトを抱擁し、それまで訪問しなかったことを悔いる発言をロベルトにしているようだが、その時のロベルトにそれを理解する力があったかどうかはあやふやである。

 更に、前田昭雄氏をはじめとする幾人もの研究者が指摘しているとおり、シューマンのバイオリン協奏曲の第2楽章の主要主題は、シューマンが自殺未遂の直前に完成させた「創作主題による変奏曲(天使の主題による変奏曲)」の主題とそっくりである。シューマンがこの主題をピアノでクララに何度も何度も聴かせながら、「この旋律は天使が僕に授けてくれたんだ」打ち明けたという逸話は有名であるが、クララにとってこの時の体験は戦慄すべきものだったらしい。ましてやこの曲の完成直後にシューマンはライン川に身投げしている。

 前田氏はそこまで明言していないようだが、クララの中で、このピアノ曲と同じ主題を持つバイオリン協奏曲が、非常に忌まわしい作品としてとらえられていたとしてもおかしくはないのではなかろうか。

 実際、この2つの作品が出版されたのは、どちらも1930年代に入ってからである。クララ亡き後のシューマンの遺族たちも、シューマンの未出版の作品の出版や演奏の勧めに関しては非常に警戒心が強かったらしい。遺族のひとりが思い出として書いているところによると、このへんはほとんど亡きクララが遺した「家訓」に近いものだったようだ。

当初はこの作品に好意的だったクララの見解が翻った最大の原因はクララがロベルトからブラームスに次第に「心を移した」からであり、ブラームスの作風が好きになった時点で、ロベルト生前ははっきりと表明できなかったロベルトの作品への違和感を素直に表明できるようになれたのではないかといううがった見方をヘルムート・ポフフは取っているようである。クララが実はロベルトの作風の最も先鋭な部分を理解する力がない保守的な感性の持ち主だったのでないかということはよく言われる。

 この点では、ドイツ映画「春の交響曲(日本では「哀愁のトロイメライ」などという陳腐なタイトルで公開された)」など、全体としては史実にかなり忠実で、例えばシューマンが若き日に愛した娼婦クリステルなども史実通り登場するが、ナスターシャ・キンスキー演じるクララは厳密にはミスキャストかもしれない(色っぽすぎるし、クララの持つ保守性の側面が見えてこない)。もとよりもっとも私個人はナタキンのファンですから、個人的にはクララをキンスキーが演じてくれたのはすごくうれしかったのだが。ちなみにこの映画は二人が結婚するまでの前半生しか描いていない。しかし、後年のシューマンの悲劇の予感を観じさせる、心憎い終わり方をしていると思う。

 恐らくクララは、実の父親ヴィークに引き続いて第2の「父親」となったロベルトの前では従順な「娘」だったのかもしれない。もとよりロベルトがクララの保守的な演奏スタイルをけんもほろろに批判してしまい、「私はどう演奏したらいいのかわからなくなりました」などと知人に書き送るような火花の散る葛藤も結構あったらしい。


 このようなロベルトとクララの感性のギャップが年々ひどくなり、潜在的な結婚生活の危機が深まるにつれてロベルトの精神障害が悪化したという見地にたつ研究者も少なくないようである。ちなみにドイツではロベルトとクララ、そしてプラームスの愛憎劇について脚色した文学作品や戯曲は現代でもかなりの数作られ続けているらしい。ちょうどNHKの大河ドラマのようにして、史実と関係なくフィクションめいた描き方をしたものも多いようである。例えば「ほんとうはクララがロベルトを絞め殺したのだ」とか。

***

 ヨアヒムの遺言でプロイセン国立図書館に寄贈されたバイオリン協奏曲の自筆譜は、ヨアヒムが死んだ1907年以降も更に30年も眠り続ける。

 この曲の再発見のきっかけもかなり変わっている。1933年、ヨアヒムの甥の娘でバイオリニストでもあった、ジェリー・ダラーニという女性(ラヴェルのあのバイオリン曲史上最難曲のひとつ、「ツィガーヌ」の初演者として知られているくらいであるから、決して「大叔父の七光り」だけのバイオリニストではない)が、ある時突然、大叔父のヨアヒムとシューマン自身の霊が自分の前に現れて、「忘れ去られたロベルトのバイオリン協奏曲がどこかにあるはず」というお告げをさずけたと言い始めたのである。そこでこの幻の協奏曲探しが始まったのである。


 当時降霊術が盛んで、シューマン自身それに凝ったことがあるのは確かだが、この事件は、ヨアヒムの遺族相互間でのこのシューマンの遺作を巡っての姿勢の違いが、演奏肯定派のジェリーにほとんどヒステリー発作に近い形で幻影をみせ、この作品の公表に有利な状況を無意識的に生み出したというべきだろう。時はまさにヒステリーの治療者、フロイトが大活躍していた頃のドイツ・オーストリアである! フロイトがダラーニを診察したらどのように解釈したかは目に見えている。

 1937年にいたり、ヘルマン・シュプリンガーという人物がついにプロイセン国立図書館からこの協奏曲の自筆譜を「公式に」発掘する(実は以前から一部の人に所在は知られていたものを遺族の反対を無視して勝手に雑誌で公表したと言うだけのことのようだが。今も昔もジャーナリズムはこの種のスクープが好きである)。


 そしてこのプロイセン国立図書館長のゲオルグ・シューネマンにより楽譜が校訂され、その年のうちにショット社から出版された。

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 ここから先の初演に至るまでのいきさつがまた一悶着あるのである。

  バイオリニスト引退後も、指揮者として活躍する、往年のユダヤ人名バイオリニスト、イェフディ・メニューヒンは、1937年、この曲の出版された楽譜を早速手に入れた。そして1937年10月3日にサン・フランシスコで世界初演をすることが報じられた。


 しかし、ドイツのナチス文化省は、「この曲をユダヤ人に初演させるわけにはいかない、ドイツ人によってなされねばならない」と公式声明を出して干渉、11月26日、当時ドイツ最高の名バイオリニストといわれたゲオルグ・クーレンカンプの独奏、カール・ベーム指揮ベルリン・フィルの演奏でこの作品を初演し、全世界にラジオ中継した。


 しかし、クーレンカンプの演奏は独奏部の一部を改定したばかりか、一部楽譜のカットなどもあったため、12月6日にカーネギー・ホールでFerguson Websterのピアノ伴奏でアメリカ初演したメニューヒンは「楽譜通りに弾いた自分の方が真の意味での世界初演である」とやり返したという。


 ちなみに、前述のダラーニ自身はこの後、この曲の3番目の紹介者として、ロンドンでBBCオーケストラと演奏したとのことである。


 ただ、このバイオリン協奏曲初演に関するいきさつは諸説あり、ダラーニが初演とするものもあることをここに付記したい。

 何とクーレンカンプは、初演後一ヶ月に満たないその年の12月20日に、テレフンケンのSPにこの曲を録音し、この曲のレコード第1号にもなっている(ちなみにこのSPの演奏は、初演と同じベルリンフィルではあるが、ベーム指揮ではなくてシュミット・イッセルシュテット指揮と公式には記録されている。初演の指揮がベームであったことは当時の演奏会評に記述がいくつも残っているので間違いないだろう。

 それにしても、なぜフルトヴェングラーがこの初演を引き受けなかったのか。「マンフレッド」序曲のウィーン・フィルとの戦慄的な空前絶後の名演盤(51/1/24-5録音 LPはEMI WF-60038。グラモフォンから現在CDで出ているのは別録音)……私はかの有名な第4交響曲の演奏はそんなにいいとは思わず、フルトヴェングラーなら遥かにいい演奏ができたはずと思うが、この「マンフレッド」のヴィーン・フィル盤は文句なくすごい。空前無比の「ドロドロ」とした情念。バイロイトの「第9」ですらそんなに特別視しない私が、「ウラニアのエロイカ」と共に別格的に好きなフルトヴェングラーの演奏である……などから想像するに、このバイオリン協奏曲伴奏を仮にフルトヴェングラーがやっていたら、絶対的などす黒いまでのすごみが出て、録音でも残ろうものなら永遠の名盤視されたことは確実なのに。


 単に日程があわなかったのか、それとも、ユダヤ人楽員の亡命に実は影で尽力していたフルトヴェングラーは、この時ナチス政府の言うがままになることは嫌ったのか?。

 ちなみにこのクーレンカンプの演奏は最近公式にCD復刻され、国内盤も出て、容易に聴くことができる。


 メニューヒンも負けずに、バルビローリ指揮ニューヨーク・フィルとの共演で1938年2月9日に録音しているとのことである。これは英Biddulph LAB042からクライスラー/ロナルド演奏のメンデルスゾーンのVn協との組み合わせでCD復刻発売されているらしいが、私自身は未聴である。

 クーレンカンプ自身、ほんの2年前の1935年にはユダヤ人、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲を録音している。戦前のこの曲最高の名演と日本でも当時から絶賛されていた演奏である(前述のシューマンの協奏曲とのカップリングで最近CD化された。確かに今日の耳で聞いても古さを感じさせない名演である)。


 シューマンとメンデルスゾーンが深い親友で、互いに刺激を与えあいながら競争するように似たジャンルの作品を発表していたことも歴史上の明白な事実である。そうした意味ではこのナチスの振る舞いはやはり現在の目から見れば何とも陳腐な国威高揚策に過ぎない。


 しかしおかげで、ただでさえ「精神異常者の音楽」というレッテルがつきかねないところに「ナチスへの協力」のレッテルまでついてしまうとなると、この曲のイメージは一層悪くなったことになる。よほど星の巡りが悪い宿命を背負っていると言うべきだろう。

●追記●

なお、以上の初演に至るいきさつ関連の記述は、当初、主として10枚あまりの輸入盤CDのライナーノートの記述を比較対照して書き上げたものでした。


  本稿執筆後、バイオリン協奏曲に対するクララやヨアヒムの態度の変遷、初演のいきさつ、初演の際の賛否両論の当時の批評の幾つかなどについては、ラオホフライシュ著「ロベルト・シューマン ~引き裂かれた精神~」井上節子訳 音楽之友社 の第7章「晩年の作品の評価」の大半を費やして実に詳しく論じられていることに、偶然本屋で見つけてに気付いた。


 一部に、ひょっとしたら原典にさかのぼりうるかもしれない、明らかにケアレスミスの事実誤認(シューマンはチェロ・ソナタなど書いてはいない。チェロ協奏曲かチェロ独奏のための小品集、あるいはバイオリンソナタを勘違いしたものだ。バイオリン協奏曲の「初演」や「試奏」という言葉の使い方にも若干の混乱があり、まるでヨアヒムが演奏会の本番でこの曲を弾いたことがあるかのようにすら読めてしまう部分がある)や訳語の問題はあるが、恐らくこれほどまとまった形で詳しくバイオリン協奏曲を巡る文献を整理して紹介してくれたものは今の日本で一般の人が手に入る範囲では他にないだろう。


 その本の「明らかに誤った」記述と思われるものを修正し、若干増補させていただきました。

2.後期シューマン様式の典型

 ピアノ協奏曲Op.54やピアノ五重奏曲Op.44、ピアノ曲で言うと謝肉祭Op.9や交響的練習曲Op.13あたりを「シューマンらしい」曲だと思っている人がはじめてこのバイオリン協奏曲を聴いたら、確かに殆ど裏切られたかのような思いを感じるかもしれない。

「何と重苦しくて単調で起伏に乏しくめりはりのない曲なんだ!」

 重苦しさで有名なバイオリン協奏曲といえばシベリウスの曲があるが、あちらには刻々と変化する曲想の移ろい、繊細さと野性的壮大さの震幅の大きさ、そして後期のシベリウスに比べれば、一種の楽天的なわかりやすさも具わっている。一曲の中に内包される多様性とドラマ性という点では古今のバイオリン協奏曲の最高傑作といってもいいくらいであろう。

 恐らく、ひとわたり有名曲を押さえたくらいのクラシックファンにとっては、チェロ協奏曲Op.129ですら、暗くてモノトーンで気の利いたメロディのない、渋過ぎる曲に感じられるかもしれない。なるほど、ドヴォルジャークの曲ほどは聴き易くはない(もとよりあの曲は交響曲を含めたドヴォルジャークの最高傑作、協奏曲の枠を超越した別格の名曲であろう。「新世界交響曲」の方が遥かに底が浅い曲である)。しかしシューマンのチェロ協奏曲にはまだしもダイナミックな起伏と力強さ、希望に向けての輝きがある。いい演奏を聴けば終楽章は興奮のるつぼであろう。

 それに比べるとこのバイオリン協奏曲は何だろう。何という単調かつ鈍重な荘重さ。起伏に乏しく、同じような繰り返しの中で無理矢理曲を終わらせたのではないかというぐらいに各楽章の最後が芸がない。バイオリンの技巧がやたら滅多ら難しい割には、すべては重苦しく単調なオーケストラの伴奏に飲み込まれ、バイオリニストにとってはこれでは骨折り損のくたびれもうけではないのか。

 まだ一枚もこの曲のレコードを聴いたことがない十数年前、FMでN響のライブでこの曲をはじめて聴いた時(当時この曲の国内盤はデイスコグラフィから消えていた。元々シェリング/ドラティ盤しか世界的にも存在せず、それすら廃盤だったわけである。この時の指揮者が外山雄三、バイオリンは海野・江藤・徳永という御三家の中の誰かだったと記憶する)の私の印象も、まさにそのようなものだった。何と一本調子な曲だろう。第2主題は弱々しくて性格に乏しい。そのくせ妙に力んだ重々しさがオーケストラを支配し続ける。確かにシューマンはこの曲を書いた時精神の張りを喪失し始め、青息吐息でこの曲を書いていたのではないか?

 ただ、第3楽章のロンドの主題にだけは不思議と耳について離れない魅力があった。一度聴いただけでこの一見素朴な主題は耳から離れなくなり、固定観念となって、曲が終わったあとも私の頭の中で延々と「輪舞」を続けた。しかし現実の曲そのものがそういう私の幻想そのままに、その主題がひらりひらりと宙を舞うばかりで何か収拾がつかないまま終わるような曲と感じた。これでは素人が頭に浮かんだ一節を延々空想の中で弄り回すのと何も違いがないではないか。

 だが、このロンド主題だけは無性に好きになってエアチェックしたカセットテープ……当時はステレオラジカセのみ……でくり返して聴いた。


 そして思ったのは、「この分散和音が旋回するメロディをバイオリンで美しく響かせるには、ぐっと遅いテンポで一音一音レガートに朗々と響かせるしかないな。でもそんなことをしたら全体が弛緩してしまうかな」。


 私はそのN響ライブの倍近いとんでもない遅さでこのメロディを口ずさむことに取り憑かれた。「でも、こんなの邪道だよなー」と思いつつ。

 そのあと、クレーメルがムーティの指揮でヴィーン・フィルとやったライブ録音をFMで聴く機会が程なく訪れた。しかし私の期待に反して、クレーメルは実に速いスピードで、しかも一音一音を短めに切って非常に痩せた音でこの終楽章を演奏した。


 「これは違う」と思った。この曲想の持ち味を殺している。クレメルが元々細身の音を出す反ロマン的な芸風とわかりつつも、そう思った。

 それからまた2,3年して、やっと限定廉価版の形で、戦後最初のこの曲の録音といわれたシェリング/ドラティのLPを入手する。比較的テンポが速くて淡泊でさっぱりした演奏だなとは思ったが、60年頃の演奏家に共通する非常に素直な力強さは感じられて、まずまずの演奏と感じた。


 しかし、この曲の第1楽章すら、ちょうど大オーケストラでバッハの荘重なフランス風序曲でもやるようなつもりで重戦車のように一音一音踏みしめながらとことん重々しくやったら凄い曲に響くのではという思いも拭えなかった。

 その頃の私は、そういうまるで地面に足をめり込ませるような踏みしめるような調子で曲を演奏しさえすれば、この曲や「マンフレッド」序曲のような後期シューマンの曲は独特の鬼気迫る迫力が魅力となるはずと確信しつつあった。曲のフォルテの部分にそういう「地面にめり込む迫力」が出てくれば、第2主題の柔らかい部分はさながら天上の幻想のように響き、それはそれでコントラストがつくのではないのか。

 ここにいたり、私は、前期のシューマンと後期のシューマンを区別する、非常に単純な指標を見出す。それは、特にフォルテの高らかなメロデイの場合、「青空高くどこまでも飛翔するかのように上空に向けて響きわたる」開放感があるのが前期、逆に、舞い上がろうとしても天井に容易に頭がつかえてしまい、そのありあまるエネルギーを、大地を踏みしめ、穴をうがつかのように下の方にぶつけるのが後期という分類である。

 要するに「天井の高さ」がすべてを決めてしまうのだ。天井が高ければどこまでも自由に飛翔できるので機敏で自由な反応ができる。緩急やダイナミズムの変化も思うがままである。しかし、天井が低ければ、高らかに叫んだつもりでも、そうでない部分と見かけ上の標高差はほとんど生じない、容易に「飽和点」に達してしまう。だから単調でくどくて妙に息が詰まる感じにしかならなくなる。


 ちょうどステレオのトーンコントロールのバスをやたらと上げた状態だと弱音は聴きやすくなる代わりに強音との聴感上のダイナミックレンジが狭まり、すべてがボテボテの鈍い音に聴こえはじめるのに似ている。

 こうした「天井の低さ」「飛翔できずに地面にめり込むしかなくなる」兆候がシューマンの曲にはじめて明白に現れるのは、有名曲では交響曲第3番「ライン」Op.97(1850年作曲)の第1楽章からであろう。この楽章、4分の6拍子と2分の3拍子が実に複雑な形で折りあわされるという、シューマンお得意のヘミオラが一番徹底して活かされており、はじめて聴く人はそのリズム変動のマジックに幻惑されて、主題のメロディがつかみにくい、独特の不安定感を感じるはずである。お箸を持った素人指揮者をこれほど困惑させる曲は前期ロマン派にはない。

 ただ、一見曲想が明るいにも関わらず、妙に頭の上から押しつぶされるような息苦しさとくどさをこの曲の第1楽章に感じる人は少なくないはずである。

 ほんの少し前までのシューマンは違っていた。ピアノ協奏曲Op.54(1845年作曲)の第3楽章もまた、8分の6拍子と4分の3拍子が複雑に絡み合ったヘミオラの徹底使用の極致を行く音楽である。少し観察すれば「ライン」の第1楽章と非常に似た発想で作られた曲だとわかるはずである。しかしピアノ協奏曲はそのへミオラを機敏でいたずらっぽい曲想の変化として実に軽やかに開放的に用いている。はっきり言って非常に「しゃれた」曲想の変化として響く。この軽やかさと身のこなしの敏捷さは「ライン」の時にはもう失われつつあるのだ。


 まさにこの1845年の後半から翌46年にかけてが、シューマンの精神症状が最初に長期の危機的状態を迎えた時なのである。

 その危機のさなかに、病気の克服の勝利の交響曲として書き上げられるのが、交響曲第2番Op.61に他ならない。この曲そのものは第1楽章展開部の闘争性や第3楽章の沈み込んだ情緒はあるものの、全体としてはむしろ澄みわたる肯定感に貫かれたさわやかな作品である(この曲のラストをワーグナーの「マイスタージンガー」前奏曲か何かのように重厚に盛り上げる厚化粧はシューマンの意志に反していると思う)。

 この病気のさなかに精神を沈めるために、シューマンはクララとバッハのフーガの研究に励んだという。このような数学的・論理的なハズルじみたものが、精神を病んだ人間の内面の安静に貢献することがあることは確かによく知られている。シューマンのこの時のバッハへの感謝の気持ちは、第2交響曲の第3楽章の主題がバッハの「音楽の捧げもの」の主題に酷似していることで現されている。

 しかし、この精神安定のための論理性への献身は、シューマンの中から奔放さや機敏で即興的な表情の変化という特性を永遠に失わせるものでもあったのではないか。それが、「ライン」の第1楽章で見事に露呈している。シューマンの生涯の折り返し点はまさにその間のどこかにあった。

 シューマンの夏の盛りの終焉。日差しがすこしずつ和らぎ、灼けた肌の色は薄らぎ、風は秋のニオイがする。

 決してそれは単なる衰えではなかった。「もう一人の」シューマンの「誕生」なのである。だが、前期シューマンこそシューマンの魅力のすべてと感じる人にとっては、「もう、あのシューマンはいなくなってしまった」ということになる。

 さて、今、バッハのことを述べた。


 シューマンのバイオリン協奏曲を聴く際には、実はバッハの序曲や協奏曲を聴くつもりになると理解しやすくなるところがあるのではないか。管弦楽組曲の第2番のフランス風の遅い荘重な序曲(といっても最近の古楽の団体は、もはやイ・ムジチのように荘重にやったりしないが)、あるいはバイオリン協奏曲の1番や2つのバイオリンのための協奏曲をこのシューマンの曲に重ね合わせると、急に理解しやすくなるのではなかろうか。

 シューマンのバイオリン協奏曲の第1楽章の管弦楽のみによる提示部に続くバイオリンソロが提示するカデンツァ。これはまさにバロックではないのか。バッハではないのか。フランス風の荘重な序曲に引き続いて、今まさに無伴奏バイオリンのためシャコンヌが始まるのだとすれば?


 3.各楽章の構成 

§ 第1楽章 力強く、あまり速すぎない速度で 4/4

 いきなり荘重な第1主題が中音域の弦の3連符の刻みを伴奏にして管弦楽のみで現れる。メロデイックと言うよりは幾分ぎこちないくらいの旋律だが、すでに述べたように、もしこの部分をロマン派の味付けの加わったバロックのフランス風序曲と理解すれば、この重付点音符の効いた重々しいメロディも容易に納得がいくのではなかろうか。シューマン自身「力強く、あまり早すぎないように」と表記していることを忘れてはならない。

 第2主題が始まるところで伴奏の弦の三連符が一度外れて、弦楽合奏にフルートを伴うヘ長調の柔らかいメロディが始まる。この旋律を霊感が乏しくで芸がないと感じる人もあるかもしれないが、伴奏の合いの手と旨く呼吸を合わせれば、独特のため息をつくような効果が出るはずである。ただ、管弦楽提示部のこのあたりを本当に旨く解釈できた、完全に私が納得できる演奏には巡り会えていない。

 再び第1主題部の荘重な部分にかなり近い内容のものが経過句としてあらわれる。このあたり、提示部は殆どA-B-Aの構成でできているといってよく、単純といえば単純きわまりないが、シューマンが意識的にバロック様式をねらっていたとすれば何のおかしいこともあるまい。

 経過句が急に静まったところではじめて独奏バイオリンが、まるで無伴奏バイオリンパルティータでもはじめるかのようにして、重音奏法を駆使して登場し、管弦楽の控えめな伴奏を伴いつつも、多少カデンツァ的な動きを見せた上で第1主題をゆっくりと奏する。これまた荘重で何とも渋い、堅苦しいとも言える響きがあるが、これまたバッハか何かを効くつもりになるとスンナリ理解できるだろう。

 このあと第1主題を擬古典的に装飾を重ねたところで再びヘ長調の第2主題。管弦楽提示部よりはかなり生き生きとした美しさをもつ生彩ある部分として聴こえるのではないかと思う。途中から長調になってのままで第1主題を用いた経過句となり、バイオリンがのびのびと重音奏法を駆使して歌い上げる。このあたりはベートーヴェンやブラームスのバイオリン協奏曲の同じような部分を思い起こさせる幸福感がある。経過句の後半はバイオリンは休んで再び管弦楽のトウッテイで、しかし長調で第一主題の旋律が朗々と歌われて提示部は終わる。

 展開部は、一見独奏提示部と似たようなバイオリンの重音奏法で始まるが、ピアノ協奏曲の第1楽章展開部の前半と同様に、比較的弱音を多用して静かで詩的な移ろいの中で第1主題と弟2主題を展開していく趣きが強い。管弦楽はかなり控えめに独奏バイオリンを支えるのみ。

 突然少しずつ独奏バイオリンが熱を帯びはじめたと思ったら、そのまま再現部に突入。最初は独奏バイオリンを伴っているがすぐに管弦楽のみのトウッテイとなる。こうなるとこの管弦楽総奏の繰り返しの回帰が少しくどくて長ったらしいと感じられはじめなくもないが、バロックのコンチェルト・グロッソのリトルネルロ、総奏とソロの交互の出現と思えばどうだろう。その後再現部は殆どソロ提示部と同じ形で進む。

 そしてまたもや第1主題の管弦楽トウッテイ、くどいなあと思ったところで、従来の半分の長さのところで急に静まり、長調のバイオリンソロで、肩の力の抜けた新しいメロディが導入される。ここからがコーダである。バイオリンは3連符の重音奏法で明るく歌い上げて、華やかさを盛り上げようとするのだが、最後には楽章全体の腰の重さの方が勝ってしまうような管弦楽のトウッテイによる重たい長調の和音で終わる。

 確かにくどい、この楽章は。シューマンにしては型どおりに協奏ソナタ形式に従い過ぎという意見もあるだろう。しかし、シューマンはこの曲をヨアヒムの独奏したベートーヴェンのバイオリン協奏曲の刺激で作り始めたのである。重厚長大な弟1楽章になるのが当然とも言える。そもそもベートーヴェンやブラームスのバイオリン協奏曲の弟1楽章にしても、メンデルスゾーンやチャイコフスキーに比べれば、初心者のクラシックファンには退屈で冗長に響くのではなかろうか。独創的な構成のピアノ協奏曲の第1楽章(もともとは独立した単一楽章の幻想曲だったことを忘れてはならない)の即興的な奔放さを期待するから期待外れと感じるのである。練り込んだ解釈で聴かせれば結構多様で味わい深い音楽になる。演奏解釈の歴史が浅すぎるのである。

§ 第2楽章 ゆるやかに

 問題の絶筆、クララを戦慄させた、投身自殺直前の「天使が与えてくれた」メロディによるピアノ独奏のための変奏曲とほとんど同一の主題による変ロ長調、4/4の緩やかな楽章。おもしろいのは全編にわたってチェロが2つの奏部に分割され、その片方は切分音のシンコペーションで分散和音的にあたかも対旋律のように響きながら第2の独奏部的な形で絡んでくる点だ。しかも、ただの分散和音ではなくて常に半拍遅れて入ってくるので独特の浮遊感と不安感を生み出す。私は永らくこの分散和音をチェロ独奏だと信じていた。

 主要主題部ではこのチェロの分散和音の音型の方が管弦楽伴奏で先に出てくる。その後でさほど立たないうちに、問題の「天使の主題」を独奏バイオリンが歌い始める。中間に短くて多少孤独感に打ちふるえる趣きの中間部を持つA-B-Aの三部形式とも言えるだろう。ちなみに展開のプロセスではバイオリン独奏もこの切分音の分散和音動機をくり返し奏し、独特のかすかな不安な気分を呼び起こさせる。全体として飾り気のない静かな楽章である。ブラームスのバイオリン協奏曲の第2楽章とも似た風情があるがかなりこちらの方が短い。切分音の分散和音動機が時々介入しなければ少しとりとめもない叙情的な楽章と感じるかもしれない。

 主要主題再現部は提示部より短調に偏る傾向があり、提示部よりやや長い。殆ど展開部的な側面も内包している。最後に長調でもう一度二分割されたチェロ奏部の一方に分散和音の切分音の動機が戻り、あたかもこれからもう一度主要主題部が3回目の回帰を見せるかのように感じさせたところで曲はそのままテンポを速めて高揚し、次の楽章になだれ込む。

§ 第3楽章 生き生きと、しかし急速にではなく

  3/4、ニ長調の、ポロネーズ風の明るく輝かしい旋回する分散和音風の、単純だが忘れがたいメインテーマを持つロンド。実はこの音型は前の楽章の主要主題部の後半でさりげなく独奏バイオリンにも表れている。

 このポロネーズ風ロンドの主要主題を、どういうテンポとアーティキュレーションで奏するかということで、この楽章全体の雰囲気は激変する。ショスタコピッチの交響曲弟5番の終楽章のテンポ設定と同様に、演奏者の個性と主張が恐ろしく曲の意図するものを変えてしまう実に怖い楽章である。ひとつだけヒントを出せば、シューマン自身の楽譜のメトロノームの書き込みは四分音符が1分間に63回となっている点を覚えて置いてほしい。

 主要主題そのものが前半と後半に分かれており、バイオリンソロがメロディを弾く前半が終わったところで管弦楽トウッテイ、その後にバイオリン独奏で、よりチャーミングで旋律的でにじり寄られるような後半の経過句が奏でられる。私はこの経過句にじっくりと「言い寄られる」のが大好きである。この経過句ががそのまま殆ど展開部といっていいくらいの形でしばらく展開されたところで、木管に全く新しい印象的なかわいらしいスタッカートに弾む動機が出る。この木管の動機とそれに応答する独奏バイオリンの旋律が副主題で、特に木管の動機の方はこの後きわめて重要な働きを果たすことになる。

 この副主題もかなり長い時間をかけて展開された後で、やっと主要主題の管弦楽のみによるトウッテイ部分のみが手短に回帰する。

 この後に続く部分はロンドソナタ形式の展開部というべき部分だが、まずは第2楽章のあのチェロの切分音の分散和音主題が突然回帰する。3拍子のポロネーズの中に突然2拍子系のこの部分が重複して表れるので一種のポリリズムのような効果が生まれる。

 その後は展開部の後半と言うべきかなり長い部分で、主要主題と副主題の木管の動機に独奏バイオリンの技巧的なパッセージによる展開が延々と絡む部分が来る。この部分は独奏バイオリンが技巧的なパッセージで異様なまでに駆け回らねばならない割には妙にあっさり淡々と曲が進んで、ソロそのものは「目立たない」ところがあり、ソロイオリニストには「骨折り損のくたびれもうけ」と感じさせられて嫌われる、この曲最大の難所だろう。もとよりクレメルのムーティ指揮の旧盤やベルを代表とする現代の名手はこの部分をかなり速いテンポでサラサラと難なく弾き飛ばしてくれることが多い。

 ところが、数年後にクレメルが、アーノンクール/ヨーロッパ室内管弦楽団と組んだ演奏を聴かされた時、クレメルは驚くほど遅い、細やかなアーティキュレーションの演奏という、全く異なった解釈で演奏しているのに驚いた。これこそ私の理想の演奏だと思った。

 これについては、英語のアーノンクールによるライナーノーツに「ショパンは、ポロネーズを、3分の2拍子ではなく、6分の4拍子で弾くように示唆していた」という興味深い指摘がある。

 こうして曲は再び主要主題部に回帰する。ここから経過句を経て副主題まではほぼ型どおりに前半の形が反復される。まさにソナタ形式で言う再現部である。ここの後で再び管弦楽のみによる主要主題の一部の総奏、更に再び経過句が出て(何というくどさ! まあ、私はこの経過句が大好きだからいいけど)、木管群に全く新しい旋律が出て独奏バイオリンが3連符中心のバッセージでその木管の旋律に絡みはじめたあたりからがやっとコーダである。バイオリンの小刻みなハッセージはそれ相応に高揚感を盛り上げては行くが、ソリスト側からすると、またもや忙しい割には自分は目立たないフラストレーションがたまるかもしれない。そのフラストレーションがたまりにたまったところで、やっと(というか、唐突に、というか)管弦楽の総奏による「ターッ、タ、ター」という和音が曲の終わりを告げてくれる。

 今回英語の解説書を読んではじめて曲の構造を理解したくらいで、ともかく何度も同じ旋律がホロネーズの規則正しいテンポの中で舞い戻るという感じのつかみ所がない楽章である。これがピアノ協奏曲のあの機敏な表情の変化のロンドを書いた人の作品とは思えないという人もあるだろう。

 この件に関して、後述のツィンマーマン/フォンク盤の輸入盤のライナーノートに、エックハルト・ヴァン・ホーゲンと言う人が興味深いことを書いているので最後に翻訳して引用したい。

 この楽章でシューマンは一貫してポロネーズのリズムを用いているが、ポロネーズは、この曲作曲当時でもすでに時代遅れのものになってしまっていたはずである。シューマンはふと「青春時代」を振り返ったのだろうか? ポロネーズ付きと言えば、クララが13歳の時に書いたイ短調のピアノ協奏曲がある。この曲の実際のオーケストレーションをしたのは、他ならぬクララの教師役、シューマンだった……

 ヴァン・ホーゲンはこの一節の直前に、クララによってこの「バイオリン協奏曲」が闇に葬られた可能性について論じているのであり、この最後の一節の文末に原文にもついている「……」に、ヴァン・ホーゲンがどんな思いを込めたのかは容易に想像がつく。

 ロベルト、人間とはなかなか気持ちが通じ合えないものだね。


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