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テクノクラートとしての請負い民主政治家 -二宮尊徳についての壮大なる誤解-

 二宮尊徳(金次郎。正確には「金治郎」)というと、戦前の修身の教科書で勤勉と質素倹約を説いた偉人としてのみあげつらわれ、薪を背中に背負って勉学にいそしむ銅像が日本中の小学校に建てられていたあたりから、戦後日本では、日本人の「精神主義」の否定的側面を代表する存在であるかのようにとらえられがちである。

 では、彼は、儒教の教えを説き、農民に辛抱を強いるだけの「道学者」だったのか?

 実情はまるで正反対である。富裕な自作農の農民の子として生まれ、善意の篤志家だった父と酒匂川の2回の氾濫による田地流失のおかげで傾いた自分の家の財政再建を短期間で成し遂げた功績が、在所の小田原藩主に認められ、現在の栃木県にあった地味不良な領地、桜町の再建を一手に委ねられる。

 「天保の大飢饉」を事前に予測し、農民に天候不良に強い稗を植えるように強制し、「餓死者ゼロ」という見事な危機管理に成功したことで有名となり、他藩の領地の再建を次々と厳格な条件で引き受け、ついには幕府に命じられて天領の再建にも成果を残す。

 彼の手法は徹底的な実地検分に基づく、農地の収穫についての科学的かつ合理的なシミュレーションと、計画実施、一種の私的なファンドを厳密に運用しての厳格な財政再建、そして、成績優秀な農民を農民の投票で選んで表彰するなどの、モチベーションの高揚策を採った。

 更には、支配する武士階級が濫費したらザルになることを見据えての、一歩も引かない形で領主や役人、役人と賄賂で結託した庄屋たちの生計の無駄を厳密に「財政監査」した。

 そして、家政の緊縮と、「分度」と呼ばれる、一定の目標値以上の収益はすべてファンドの運用資金に繰り込むことについての厳格な事前契約を受け入れないとファンドからの融資も決してしないし、いうまでもなく尊徳本人も一切の供応を断り続けるという、政治的ネゴシエーターとしての厳格さとしたたかさに裏打ちされた、いわば、自治体の産業と財政の再建の「請負い」プロ=テクノクラートとしての生き方に他ならなかった。

 また、なぜ彼の仕法が短期で成功したかの最大の理由は、当時年貢の対象とならなかった、検地されていない土地.....未開墾地や「捨て地」.....洪水で見捨てられた土地を耕作させることによって、生産物の収益が無税=100%生産者のものになる場所ばかりを狙ったことによることも必ずしも一般には知られていない。つまり彼は、封建体制の盲点を突く収益事業を進めたのである。

 これらのことを私が知るきっかけになったのは、以外にも、今から20数年前、中井久夫先生の「分裂病と人類」の、「執着気質の歴史的背景 -再建の倫理としての勤勉と工夫-」と題する、大部を割いた第2章である。

 村の「立て直し」においても、彼は決して村の支配者、家父長としてたち現れたのではなかった、彼は、村の合意の下に「立て直し」を指導する一種の「技術者」-----"仕法家"であった。彼は実際、支持者が4割であれば仕法をはじめず、6割であれば引き受けている。そして彼は、仕法家つまり村の治療者としての役割を自覚していた。自分たちの名が忘れられ、村民たちが自分たちの力で村を立て直した、と感じるようになったとき、仕法ははじめて成ったのである、という意味のことを言っている(今日の「治療者」たちも聴くべき言であろう) (p.55)

 尊徳は、むしろ、武士というものを、「特権階級」とはみなさず、あくまでも政(まつりごと)を司る官僚集団としかみていなかった。その官僚集団が濫費を重ねる限りは、どれだけ農民が生産量をあげても無意味であること、また、そうやって収穫が増えた分だけ年貢の取り立てを増やし、武士がそれにあぐらをかくようになったら元も子もないことを十分に看過していた。

 幕末という、身分制度が緩み、庶民からの人材登用に期待せざるを得なくなり、才覚で階級上昇が可能になり始めた時代の、歴史の大転換期ゆえに現れ得た一代の鬼才というべき人物である。

 (他分野で類似の例を探せば、少しさかのぼる時期の伊能忠敬の全国測量と地図製作は、幕府の許しを得つつも、すべて、商業で成功となった後の忠孝の「私財で」なされている)

 ある意味では、少なくとも地方自治体水準での民主政治のリーダーのあり方としては、今日でもまだ汲み尽くされていないモデルを提供してくれる人物であるように思う。

 今回、多少調べなおしたら、「考古歴史紀行ー久田巻三(ひさだけんぞう)の世界」で、@niftyのpaypalを使ってpdfでダウンロード販売されている、一種の歴史小説「二宮尊徳スーパースター」が、わずか2時間あれば全文楽々読み通せる長さにもかかわらず、尊徳の生涯とその業績について、たいへん明快に(しかも安価で)読める資料として推薦していいことに気がついた。

(注:このファイルは現在ではダウンロード販売されていない)

 以下の部分は、この文献より、尊徳が、一度仕法に行き詰まり、成田山で断食の修行をした時、ようやく訪れた「悟り」の部分である(小説的表現だが、原資料は同時代の尊徳の弟子による聞き書きや伝記にあるようだ):

〈和尚の言った全てを無にするとはこういうことか。頭もからっぽ、お腹もからっぽ。ここにある自分は全く無力な存在である。ただ、天によって生かされているだけではないか〉

〈自分は、今まで桜町の人たちを自分の思い通りに作り変えようとしていたのではないか。昨年出した出村禁止令も間違いであった。村人を縛り付けようとする愚策であった〉

〈そうか。桜町でも全てのものを受け入れよう。この世に生きとし生けるものは、皆、天の恵みである。無頼の者には無頼なりの尊さがある。どんなに自分に反抗する人間であっても、自分にとって栄養にならないものは無いのだから〉 (p.30)

 考えてみれば、純粋に合理的見地から見ても勝算の薄い戦いを、国民から財産と人命を吸い上げる形で、精神主義で切り抜けようとする泥沼にはまりこんだ日本の歴史の現実ぐらい、もし尊徳の目から見たならば、無謀そのものの、最悪の「経済」と「政治」のあり方だったはずである。

 「誠(まこと)の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚え、書籍(しょうじゃく)もなく記録もなく、師匠もなく、而(しこう)して人々自得(じとく)して、忘れず。

 是(これ)ぞ誠の道の本体なる。

 渇(か)して飲み飢(うえ)て食(くら)ひ、労(つか)れていね(=寝て)さめて起く、皆此(これ)類(たぐい)なり。

 古歌に

 水鳥のゆくもかへるも跡たえてされども道は忘れざりけり

といへるが如し。

 夫(それ)記録もなく、書籍(しょうじゃく)もなく、学ばす習はずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり。

 故(ゆえ)に天地を以(もっ)て経文(きょうもん)とす。

 予が歌に、

音もなくかくもなく常に天地(あめつち)は書かざる経(きょう)をくりかへしつつ

とよめり」

(『二宮翁夜話』)



 二宮金治郎というと、薪を背負って『論語』や『大学』『中庸』などの四書五経を熟読し、諳(そら)んじてしまった、儒教の教養あふれる勉学の人というイメージができあがっているかもしれない。

彼が、父の家がまだ傾いてしまう前に、農家のせがれとしては珍しく古書に接する機会があり、家が破産し父が死んで、叔父の家に預けられた後も、「百姓のせがれに学問などいらない」という叔父の目を盗んで、持ち込んだ本を読んだり、奉公先の武家の子弟向けの学問講義をふすまの向こうで立ち聞きしていたのは確かなようだ。

 しかし、実際には、学者というにはほど遠い、空理空論を嫌う徹底的な実際家、現実主義者であり、残された著作に示された思想的なものも、いわば自分の考えを人に伝えるための方便として生まれたもののようである。

 そして、自分が経験の中から自分の力で見いだした実践知にたいして大きな自信を抱いていた。精神主義からは最も遠い人なのである。

 「夫(それ)世の中に道を説きたる書物、算ふるに暇(いとま)あらずといへども、一として癖なく全きはあらざるなり。

 如何(いかん)となれば(=なぜならば)、釈迦も孔子も皆人なるが故なり。

 経書(けいしょ=四書五経)といひ、経文(きょうもん=仏典)といふも、皆人の書きたる物なればなり」

 ・・・・こうして儒教も骨抜きである。

 徹底的な非権威主義、神聖不可侵なロゴスの権威など信じていなかった人である。

「男なければ女なし、女なければ男なし」

「君なければ臣なし、臣なければ君なし」

 また、中井久夫先生も指摘しているように、「天道」と「人道」を単純に一致するものと考えなかった。

「天道」とは、人間のことなどお構いなしの自然法則に過ぎない。

「人道は田畑を開き、天道は田畠を廃す」

・・・・ようするに、自然界の法則(天道)は、せっかく整えた田畑を、エントロピーの法則に従って崩壊させようとするようにできている(酒匂川の洪水で父の田地が一気に流失した幼児体験の大きさの可能性を中井先生は指摘する)。

 だから人は田畑の手入れを続けないとならない。これが「人道」である。

 しかし、「天道」は、ある程度予測可能な法則性を持っているので、それを活かす方向に「人道」を為せば、

「天道は人道と和し、百穀実法(みのり)を結ぶ」

*****

 「分裂病と人類」を読んで、どちらかというと、自分をS親和者と感じ、執着気質的な尊徳的な生き方から遠い存在とばかり長年思ってきた。

 私は、躁鬱気質からは明らかに遠いとは思うけど、体型的には、分裂気質的というより、明らかに闘士型=執着気質的だと思う。この点は、およそ観念性というものからはほど遠い、むしろそうしたものを忌み嫌う父親もそうである。

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