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味のしない豪華な部隊長の食事を少年兵だった祖父が食べた戦争の話

94歳で死んだ祖父は18歳の時に、特攻隊とは別の少年兵として知覧に待機していた戦争体験者。
いつも冗談ばかり言っているフザけた祖父に「戦争の話してよ~」と言うと、繰り返し出て来る話がある。
知覧に新しい部隊長が来た日の話。

班長に呼ばれ新しく来た部隊長の部屋に行くように命令されたその日、少年兵だった祖父は自分が何故に呼ばれたのかがわからなかった。
下っ端の少年兵が部隊長と顔を合わすようなことはまず無いのだそうだ。

最高潮の緊張状態で部隊長の部屋に入り、祖父は直立不動で名乗った。
「○○班!○○係!三島藤男であります!」
部隊長は自分の机に座るよう、祖父を促した。

そこにはおもてなしのための部隊長の食事が置かれていたそうで、祖父は「器から違う」と言った。
自分たちが使っている粗末な食器ではなく、見たこともない上等のキレイな器に、見たこともない御馳走が何品も置かれている。

戦後、食堂を営んでいた祖父が「この世で一番の御馳走がアレだった」と言い切るほどで、それは満足に食べられない戦時中であったことも豪華さに加点がされているのだろう。

祖父が部隊長の部屋に呼ばれた理由は、痩せこけていたからである。
部隊長が「ここで一番痩せている兵隊を呼びなさい」と言い、祖父が選ばれた。
部隊長は自分へのおもてなしの食事を、栄養不足の少年兵に食べさせたのである。

聞いている私たちは毎回「なんて素晴らしいお人柄!」と感動エピソードとして聞くが、フザけた祖父は最後に言う。

「この世で一番の御馳走で何の味もしない食事がアレだった」

部隊長に見られながら食べる、ド緊張の下っ端少年兵の食事。
豪華で御馳走だった記憶は鮮明にあるのに、味の記憶は全くないらしい。

まかり間違って私が社長や会長になった暁には、新入社員を食事に誘ったら会計を済ませてさっさと帰ろうっと…という気になるオチがついているこの話は、身内が聞いた回数が一番多い祖父の戦争の話である。
「いつか知覧に行きたい」と長年つぶやいていたが、実際に祖父が知覧に行ったのは64年後のこと。

宿舎などを見て「全く一緒じゃ、懐かしい」と言う祖父を「詳しかったわ」と同行した叔母が表現したのだから、当時の知覧の様子をさぞかし細かく説明できたのに違いない。
64年である。
64年も経っているのに、当時の様子を忘れずに語る。
石碑に友人の名前がないかと、何時間もかけて一所懸命に探していたという。

いつも冗談ばかり言っているような祖父が64年前の友の名を石碑に張り付いて探すのだ、刻まれていたらその友は戦死しているのである。
戦死者の名前が刻まれた石碑の前でじっと名前を探す老翁の姿を、誰でも見たことがあるだろう。
あの行為は、こんなにも切ない。

供養の思いを持ってひとつひとつ名前を追っている。
生き残った自分が石碑に名前を見つけたらせめて、同じ時間を共有した友として拝んでやりたいと探すのだ。
友の消息をこのようなカタチでしか知ることが出来ない、それが戦争体験者がかつての戦地で受け取る過去である。
戦争体験者の多くが現地へ行って探す名前、あの石碑の名は生き残ったひとにとってこんなにも重い。
これが、戦争がひとの心に落としたモノである。

祖父には「戦争」が変えられもせず消せもせず語りもしない「事実」だった、ただただ事実。
娘が戦争の話を聞いても、孫が戦争の話を聞いても、祖父のクチから悲しい過去として戦争が語られることは死ぬまでなかった。
祖父が語る「戦争の話」は、数少ない温かいエピソードのみ。
戦争の事実が苦しいという重みを知ればこそ、平和であることの意味が身に沁みる。
戦後に生まれた私たちは、聞くことを考える前にまず、語ることについて考えなければならない。

#やさしさに救われて


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