贅沢はいまだに敵ですか?

先日、飲食店の別のテーブルで説教されている部下(らしき人)がいた。
任された仕事を、やる前から「自信がない」とかでなかなか動けないらしい。
上司「自信?そんなもん無くてもやるんだよ、やり方わかってるんだろ?それで、行き詰まったら相談するなり頼むなりすればいいじゃねえか」
一理ある、というかただの正論だ。

けれども僕は、高圧的な口調で、口ごたえするなと言わんばかりのその態度にむしゃくしゃした。
なによりこちらは食事中だ、むこうの大声に意識が行ってごはんの味が薄く感じた。

トドメのひと言はこうだった。
「お前の言っている事はなあ、贅沢なんだよ」
続くフレーズはお決まりの、
「俺たちの若い頃はなあ」
意欲が減退している部下に散々と正論をぶち撒けて、昔語りを始める。
挙句に「笑えよ、笑顔が大事だろ?あっはっは」と来た。

あんたらの時代はたしかにがむしゃらだったのかもしれない、おかげで僕たちはその頃に比べれば豊かな生活が出来ているのかもしれない。

しかし、だからこそ、その頃には無かった、否、意識する間もなかったような悩みが生まれるのだ。「黙って言われたことをやる」以外の選択肢が見えてしまうのだ。
それを贅沢だと言われれば、たしかに贅沢だ。

では、贅沢な悩みは禁じられるべきものだろうか。
そもそも、悩みに贅沢なんて基準があるのだろうか。
その人が悩み苦しみ、身動きが取れなくなっている以上、その悩みはその人の厳然たる悩みなのだ。
それを解決する前に「考えるな、戦え」と言うのは、家畜にムチを打つ行為と何が違うというのだろう。

ふと、皿を見ると食べ終えていた。鳥唐揚げの甘酢あんかけ。
我々は日々、畜群に生かされている。
Amen.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?