見出し画像

湯田中にて 1

 電車にはねられた怪我の後養生をしたかった訳ではない。ただ、ゴールデンウィークの代休を使う由が思い当たらなかったので、久々に温泉でも行くかとあれこれ探し、同じ県内の湯田中温泉の宿を取った。「同じ県内」と言っても、日本でも片手で数えられるほどの広さを誇る我が信州のこと。居所から目的地までは「ちょっと行ってくるか」という軽いノリではムリな距離。せっかくなので、近隣に住んでいる友人にも連絡を取って、会うことにした。


 利己的な動機からくる荷造りほど、楽しいものはない。長らく積ん読していた本や雑誌だとか、あちこち不便が出始めた自室に手を入れるための参考資料とか、ネット記事のリンクをまとめたものだとか、――あらゆる情報源を調べ上げ、ギッチリ予定を詰めて観光していた従前からすると信じられない話なのだが――とにかく「メシ以外宿から出ない」ことを軸に荷物を組み立てる。
 「夏日になる」という天気予報を信じて、持っていくのは替えの下着とTシャツを1セット、それに羽織るトラックトップだけ。一泊二日なので、下は501を履き回せば良いだろう。
 いつも泊まりがけの旅に持ち出す、小物を纏めたバッグインバッグを引っ張り出して、中身を点検する。この前に大阪に行った時に「まだ大丈夫」と買い足さなかった薬やスキンケア用品が、軒並みダメになっていた。ついでに要るものとそうでないものを整理する。
 はじめは小さめのスーツケースで行こうかとも思ったけれど、通勤に使っているデイパックで十分だった。
 ここまできて、以前「温泉宿にガンプラでも持ち込んで組めば面白いんじゃないか」と考えたのを思い出したけれど、準備していなかった。これはまた次回に持ち越しか。


 自分の車を手にしてからというもの、こうした「おでかけ」への心理的ハードルが随分と低くなった。2時間に一本しかない田舎のJRはあまりにも不便で、乗り継ぎのために居たくもない駅に、中途半端な時間を使うことになってしまう。それによって旅先を離れる時間がどんどん前倒しになってしまう。かと言って、一人だとレンタカーは割に合わない。「もしかしたらあそこも行けたかな」とか、「乗り継ぎさえなければもう少しゆっくりできたのに」とか、毎回のように旅先に小さな後悔を置いて帰っていた。


 諸々の用事や休憩を挟みつつ、4時間ほどかけて湯田中に辿り着く。開始からあまり間をあけずにチェックインを済ませる。

およそ一人で過ごすには広すぎる部屋に通される。結局、宿で一番狭いのがここなんだと思う。

 それなりに年季が入っているが、むしろ味に思えるような宿。やたらゴツいキーホルダーがついた鍵。入り口と客間が区別された空間。少し沈み込む畳。使い方がわからない謎の備品たち。思わぬ灯りが点いてしまう壁のスイッチ。都市部に行くときは、どこに行っても同じなホテルチェーンを取ることが多いので、久しぶりの感覚に身を包まれる。
 ひとしきり部屋の使い勝手を頭に入れると、奥の机に荷物を広げる。

 …いや待てよ、その前に風呂だ。


 平日、しかもチェックイン直後ということもあって、大浴場には人影がない。イモを洗うほどの状況に行き合ったことは稀だが、それでも人が少ないに越したことはない。洗い場で汗を流し、湯船に浸かる。「あ゛ぁぁぁぁぁぁ」と小さく声を出す。誰もいないからこそなせる業。入っていられないほどの熱さではないが、家の風呂と比べればかなりパンチが効いている。壁にかかった「只今の湯温」を見ると、42.5℃を示していた。身体の冷えた部分がたちまち熱を帯びるのを感じる。

 宿のサイトや旅行ガイドをみていると、よく「非日常の空間を…」とか、「都会の喧騒から離れ…」などと謳っているが、いざ湯船に浸かり「あ゛ぁぁぁぁぁぁ」なんて唸ってしばらくもすれば、自ずと頭に浮かぶのは仕事やその他諸問題である。


(…とまぁ、一度はここにつらつら書いたけれど、長くなりすぎたのでまるっと削った。いずれ、この部分は"はなれ"にアップすると思う。)


 あまり考えていてものぼせてしまうので、程々にして上がることにした。スリッパが奏でる気怠い足音を立てながら、自室へ戻る。タオル掛けにそれを掛けると、鍵付きのボックスに入れておいたiPhoneを取り出す。
 会う予定の友人からメッセージ。身内に不幸があったので、会えなくなったのだという。そういえば、別の場所でそれらしき投稿をしていた。いささかのやるせなさを覚えながらも、気持ちを切り替える。こればかりは仕方のないことだ。
 時計を見ると、18時になろうとしている。少し早いかもと思いつつも、あらかじめ調べておいた店を目指すことにした。


『臨時休業』

 なんてこった…Googleでは「営業中」になってたぞ…。SNSの営業情報を見落としていたのだろうか。もっとも、チャンネルが増えすぎていて、片やちゃんと更新されているアカウントがあっても、もう一方の最終更新が「2年前」なんてこともあったりして、もうどの情報源を信じればいいn……ええい、グダグダ言っていても休みは休みだ、湯上がりの身体はビールを欲している。踵を返してもと来た道に戻る。

 宿を過ぎ、通りを更に進むと、「歓楽街」のネオンサインが増える。

てっぺんの二宮金次郎と小便小僧のハイブリッドみたいな謎の像が、やたらいい味を出している。

 薄暮の飲み屋街は、サインが点いていたり、暖簾が出てたりしている店よりも、せわしなく開店準備をしている店のほうが多い。時折投げられる『まだ早いよ』と言わんばかりの冷たい視線を躱しながら、どこか良さそうな店はないかと歩みを進める。ほどなくして居酒屋を見つけた。重たい引き戸を開けて中に入ると、先客は一組だけだった。メニューに目を通し、ビールと数品を注文する。
 カウンターの上に据えられたテレビに視線を移すと、地方ニュースの後半戦といったところで、宿を出てからかれこれ40分くらい歩いていたことに気づかされる。普段、職場から帰れば同じ局の同じアナウンサーが読むニュースを聴いているはずなのに、場所が違うだけで全く違って聞こえるというのも面白い。

手がくっつきそうなほどキンッッッッキンに冷えた生中と、山菜のお通し

 お通しと餃子とともに一杯目をさらりと流し込み、二杯目のハイボールとタコの唐揚げに手を付ける頃には、先客と待ち合わせていたらしい数組も加わり、じわじわと席が埋まり始めた。ここらで店を変えるか。

 会計を先に済ませ、残りのハイボールを飲み干して、とっぷりと暮れた街に出る。街と言っても、絶えず人が往来するわけでも、しつこい客引きがいるわけでもない。土日はもっと賑わっているのだろうか。

 山から吹き下ろす風に少し肌寒さを覚えながら、トラックトップのジッパーを胸元まで上げる。持ってきておいてよかった、と思いながら、もと来た道を戻る。


ーつづくー


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?