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【短編小説】魔法がとけた歌うたい

 ぼくが真白を嫌いだった理由のひとつとして、いつでもどこでも躊躇いなくかつ美しく泣く、という点が挙げられる。彼女が頬に伝わせる涙は、いつだって清く正しく美しく、そしてどこまでもおぞましかった。

「ゆんちゃんの言わんとすることはなんとなくわかるかも」美貴は白身のカルパッチョのソースを、ペーパーナフキンで無造作に拭った。その粗野な仕草は彼女に似つかわしくないと断ずる人は多いのだろうが、そう断ずる人々は美貴の本質などこれっぽっちも理解していない。なぜ断言できるかというと、高校時代のぼくがそうだったから。「あなたは大勢の人の目の前で絶対に泣けないタイプだものね」

「要するに僻みもあったんだと思う」とぼくは肩をすくめてモヒートを啜る。「彼女を見てると無性にイラつくんだよ。どうしてこの人は、たかが失恋ごときで世界一不幸みたいなツラできるんだろって。顔も可愛くてお勉強もできて男子にもモテまくりで、おまけに家族はみーんな仲良しこよしのくせして、恥ずかしげもなく悲劇のヒロインになりきっちゃうあの神経はまったく理解できないや」

「それ、嫌いだったんじゃなくて、現在形でガッツリ嫌いじゃない」
「そうだよ嫌いだよ。今でもあの女の顔を思い出すだけで身の毛がよだつね」とぼくは吐き捨てる。
「むちゃくちゃ言うわね」と美貴が笑うと、シフォン素材のワンピースの袖が春の雲のようにふるふると揺れた。
「もはや現在形じゃなくて、現在進行形で嫌いかも。十代のぼくも、二〇代のぼくも、そして三〇代以降のぼくも、もれなくみんな彼女が嫌いだ。各年代のぼくたち満場一致でそう思ってる」

 美貴が声を上げて笑い、弾みでフォークを床に落っことした。「ああ、もう。ゆんちゃんがむちゃくちゃ言うから」
「ぼくのせいじゃないでしょ、二八にもなって笑いすぎでフォークを落とすなんてダサすぎ」
「高校の同級生を一生嫌い続けるゆんちゃんだってなかなかダサいわよ」

 やり合っているあいだに店員がさっとフォークを回収し、きれいなものをテーブルに置くついでに空になったカルパッチョの皿を下げた。ぼくと美貴は目礼すると、ふと真正面から視線がぶつかった。反射的に逸らし、あくまで何気なく窓の向こうの桜の木を見やる。もっとも四月も半ばなので、街灯に照らされて頼りなく浮かび上がるそれには、すでに花弁ひとひらさえ残っていないのだけど。

「わざとらしすぎよ」と美貴がせせら笑う。「気になってるんでしょう、どうして訊かないの」
「だってこういうの訊くのって、なんだかずるいじゃん。べつにぼくは美貴の交友関係を把握したいわけでも美貴を束縛したいわけでもない。大学二年のときのあなたの彼氏とぼくは違う」
「それは大学三年」と美貴が訂正し、グラスに残ったサングリアを飲み干した。「ゆんちゃんって自分のずるさは律するくせに、他人を嫌うことにはためらいがないのね」
「ずるさは態度だけど、他者への嫌悪は生理的感情だ。律することなんてできるわけがない」
「そういうのも開き直りっていう一種のずるさなんじゃないの」
「ああもう、まどろっこしいな。じゃあ訊くよ、真白とは最近いつ会ったの」

 美貴がにやりと片方の口角を上げる。「二週間前、恵比寿でお茶したわ」
「あなたがこんなに底意地の悪い女だったなんて、高校時代は知らなかった」とぼくは言い、アジとアボカドのなめろうを自分の取り皿に取り分けた。そして手を挙げて店員を呼び、美貴のトマトサワーと自分のアールグレイサワーを注文する。

「私たち、接点がなかったものね。三年間で一度もクラスは一緒にならなかったし」
「もし高校の卒業式にタイムスリップできるとして、当時の自分に『大学で美貴と再会する』って伝えたら、泡を吹いて倒れる自信がある」
「ちょっとなによそれ、失礼すぎない?」
「それで」ぼくは平静を保つ気すら失せていて、苛立ちもあらわに畳み掛ける。「真白はまたぼくの近況を訊いてきたわけ」
「ええ、もちろん」大仰に彼女は頷く。

 他人をからかうときさえ無駄なまでに美しいその顔面の表皮をときどき無性に破ってびりびりにしてやりたくなるね、と息巻くヒロの歪んだ口元が脳裏をかすめる。まったくその通りだ、とぼくは心の中で同意した。

「さっきのゆんちゃんみたいにわざとらしかったわよ、彼女。そういえば優衣は今なにしてるの、の『そういえば』が、さっき私から目を逸らしたゆんちゃんと同じくらいわざとらしかった」
「三回も同じこと繰り返さなくたっていいでしょ」
「あいにく底意地の悪い女なので」美貴はぼくの苛立ちなどまったく意に介さず、トマトサワーをあおる。突き出した白い喉がごくごくと美味しそうな音を鳴らすので、ぼくはついトマトサワーが彼女の細胞ひとつひとつに染み渡っていくところを想像した。透明な赤がやがて美貴の皮膚にまで滲み、美貴の肌の血色の元となるのだ──底意地の悪い彼女の。

「ていうかあの女、何度訂正しても頑なに『優衣』って呼んでくるところも、死ぬほど嫌いだったな」とぼくは呟く。アールグレイサワーを口に含み、海老のアヒージョをバゲットに乗せてかぶりついた。
「自分の信念とやらを守り抜くことがなにより大事なのよ。だれかの感情よりも、いちばんに正義を重んじるのよ、あの子は」
「そういう子と友だちでい続ける美貴の神経もぼくはわからないよ、どうしてあなたはぼくと友だちでありながら真白とも友だちでいられるの」
「なにそれやきもち?」
「違うよ、本気」とぼくは言う。「ぼくとあの子とでは、何もかもが真逆だ。だからときどき、すごく不思議になるんだよ。ぼくと真白、両方と友だちでい続けるあなたのバランス感覚みたいなものが、ぼくにはいまひとつわからない」

「そうね、たしかにゆんちゃんと真白は永遠にわかり合えないわ」と美貴は言った。「でもね、それはゆんちゃんと真白が似ているからでもあるの」
 スキレットからすくった鷹の爪とニンニクとマッシュルームを、危うくテーブルにぶちまけそうになった。
「はあ?」ぼくはそれらを慎重に皿の上のバゲッドに乗せ、オリーブオイルでべとべとになった手をナフキンで拭う。「あんな女とぼくが似てるだって? 正気で言ってる?」
「正気よ」言い切る美貴の声がいつになく硬質だったから、ぼくははっとして顔を上げる。彼女はまっすぐ射抜くように、ぼくの双眸を見据えていた。ぼくはたじろぎ、うろうろとそこらに視線を逃そうとするが、こういうときの美貴はぜったいにぼくを許さない。「ゆんちゃんと真白は、いつだって正反対よ。それはたしかなの。でもね、一方であなたたち二人は限りなく似ていた。昔も今も」

「高校のときから、そう思ってた?」訊ねる自分の声が、あまりにも情けなくか細く響く。
 それに釣られたように、美貴もうっすらと顔を歪めた──泣き出すのか微笑むのか、まったく予想のつかない歪み方だった。

§

 真白と会うには心の準備がいる、というのは、ここ最近ずっと美貴が口にしていた台詞だ。「こっちが整ってないと食われちゃうのよ」と彼女は肩をすくめていたが、そうまでしてなぜ彼女と友だちでい続けるのかぼくにはいまいちわからなかった。

 バルを出て、自由が丘駅南口の改札を通ったところで、美貴と別れた。週末の東横線はそれなりに混んでいて、ぼくは電車に乗り込むと出入り口付近の手すりにべったりともたれかかった。斜め前の座席に座る五〇代くらいの男がいかにも「おい、他の人の迷惑だろ」とかなんとか偉そうに説教を垂れたそうな顔でこちらを睨んでくるが、舌打ちをしてじろりと睨み返したらすぐに視線を逸らした。中年の男性の過半数は、若い女──に見える人間──に説教をしたくてたまらない病に冒されている。そのくせにやつらの肝っ玉のサイズは皆そろってビー玉以下なのだ。

 イヤホンを耳に嵌め、スピッツの『ハチミツ』を再生する。それからInstagramのアイコンをタップし、ストーリーズを見るともなく見る。男の手のみが入り込んだオムライス、真っ黒な背景に針で開けた穴みたいな白文字の羅列、よだれで顔がべちゃべちゃの赤ん坊たち。生活の濁流の中、小洒落たカフェでの「女子会」の写真が目に留まった──正確に言えばその写真そのものではなく、そこに付けられていた@mashiro1111のタグに。

 ひゅうっと細い呼吸音が、鼓膜の奥で鳴る。指が硬直したのはほんの一瞬、一秒にも満たない。ぼくはそのタグをタップして、アカウントのプロフィールに飛んだ。
 小さなアイコン写真でも、それが真白だとすぐにわかった。腰まであったふわふわの髪を肩までばっさり切っていたが、それでもそれは間違いなく真白だった。アカウントには鍵がかけられていなかったが投稿数はゼロで、ぼくはもう一度舌打ちをした。斜め前の中年説教病疾患患者男性が、びくりと大袈裟に体を揺らす。そうだ、ぼくは真白のこういうところが嫌いだった。

 とくべつな自分。謎めいている自分。そういう自分を演出するのに、いつだって余念がなかった。悲劇のヒロインに固執するくせに、他人の痛みをどこまでも軽視する。真白はそういう女だった。

──優衣はいいよね、いつも脳天気で。
 脳裏に再生されたその言葉に、臓物がかっと熱くなる。気がつくとぼくは彼女のプロフィールページからメッセージを送っていた。

“お久しぶりです。今日、私とあなたの共通の友人である美貴と会いました。彼女と会うたびに、あなたが私の現在について探っているという話を聞きます。あなたが私のことを嫌いだろうが蔑んでいようが、それ自体はどうでもいいことです。あなたと私はそれほど親しくなかったから、私の頭にはゴミみたいなものしか詰まっていないと断ずることもまた、あなたの自由です。ですが、もう卒業してから10年が経っています。いい加減、私のことは忘れてくれませんか。私の現在の情報をだれかから聞き出そうとするのは、もうやめてくれませんか。”

 フリックでそれだけ入力すると、ほぼ推敲せずにそのまま送信ボタンをタップした。それからiPhoneをラルフローレンのワークジャケットのポケットに、乱雑に突っ込んだ。深く深く息を吸うと、肺がちくちくする。そして吐き出す。


 彼女のことを考えるときに思い浮かべるのは、いつも決まって高二のときの合唱コンクールのあの日だった。市民会館を貸し切って行われる合唱コンは、クラス全体の合唱以外にも有志での参加が認められている。真白は、ピアノとギターを弾く同級生と女の子三人組ユニットを組んで出演した。真白は歌をうたう女の子だったのだ。

 曲のタイトルはおろか、彼女の歌声がどんなだったか、どんなふうに息継ぎをし、どんなふうに抑揚をつけるのか、それすら思い出せない。ただはっきりと記憶に残っているのは、果てしない絶望だけだ。あの日のぼくは、ステージ上で堂々と歌う豆粒みたいな大きさの真白を客席から見つめ、「なんで自分は歌をうたう人間じゃないんだろう」と途方に暮れていた。

 ぼくは文章を書く人間だった。なぜ「文章」なのか、それはぼくにもわからない。ただ生まれながらに空想家で、それを写す手段が文章だった。彼女にとって「歌」に相当するものが、ぼくにとって「文章」だった。それだけだ。

 まだSNSも発達していなかった思春期、いわゆるケータイ小説の全盛期だった。その流れもあり、ぼくは当時母から貰い受けた古いMacBookで、毎日せっせと小説投稿サイトに空想と妄想を垂れ流していた。だれかが恋に敗れ、セックスをして、死ぬような、そんな物語ばかり書いていた気がする。その大半はヘッセやアーヴィング、ヴォネガットの陳腐な模倣に過ぎなかったが。そのことはもちろん、同級生のだれにも打ち明けることはしなかった。

 ぼくの文章が陰だとするならば、彼女の歌はまちがいなく陽だろう。すくなくともあの日ステージでマイクを握りしめていた真白は、まばゆいほど輝いていた。
 知的でミステリアスで可愛くて、清廉潔白で正義感が強く、下ネタをなにより嫌い、全校生徒の前で歌をうたう。そんな清く正しく美しい女の子である真白は、核までクリーンだった。みんなが彼女を特別視し、心酔し、崇拝した。そして同時に彼女は、一部の同級生に疎まれていた。彼女の前にひとたび躍り出れば、自らの凡庸さがあらわになってしまうからだ。そんな恥辱、まだ新雪みたいな十代の心に耐えられるわけがない。


 清く正しく美しい真白は、思いがけず一分とたたぬうちに返信を寄越してきた。ポケットの内でiPhoneが震え、思わずびくりと肩を揺らす。
“あなたの頭の中にはゴミのようなものしか詰まっていないだなんて、美貴に言ったことはありません。ですが、あなたの名前を会話の中で出していたのなら、わたしも無意識のうちにあなたを気にしていたのかもしれませんね。もしよければ、会って話しませんか。”

 最後の文字にひゅっと息を呑んだ。真白と会う? 十年ぶりに?

 しばらく画面を眺めていると、既読がついているのに反応のないことを訝しんだらしく、追加のメッセージがぽこんと送られてきた。
“おそらくわたしたちの板挟みになってしまった美貴のためにも、会って話したほうがいいと思ったのです。”
 ぼくの親指はほとんど自動的に、合意の返事を紡いでいた。

§

 明日土曜日は午後から空いていると真白から連絡が来た。そんなわけでぼくは、昼下がりの渋谷の喫茶店で十年ぶりに真白と再会するはめになってしまった。夜にその旨を美貴にLINEで伝えると、“ずいぶんと急展開ね”というまるで他人事みたいな返事を寄越してきたので、“だれのせいだよ”と悪態をついた。

 翌日ぼくは山手線に乗り込んで──山手線ユーザーというのはなぜみんな揃いも揃っておんなじ時間におんなじ電車に乗り込まねば気が済まないのだろう? それとも彼らの遺伝子にはラッシュ時じゃなくても鮨詰めを望む性癖があらかじめ組み込まれているのだろうか──渋谷駅で下車し、週末のうんざりするほどの人混みをかき分けて井の頭通りを突き進み、スペイン坂の喫茶店に向かった。

 待ち合わせの午後三時までには、まだ三〇分以上ある。一応ぐるりと店内を見回すが、真白らしき人物は見当たらない。それが彼女の余裕のように思えて、内心ぼくは舌打ちをする。少しばかり歩いたせいか不快な蒸し暑さを感じたので、ぼくはカウンターでアイスコーヒーを頼んで喫煙席の端に座った。四月後半のこの時期は、毎年着るべき服がわからない。ラルフローレンのコットンニットの内側は、うっすらと嫌な汗で湿っていた。いったい幾度春を経験すれば、ぼくは適切な春の洋服について把握することができるのだろう。何十回繰り返そうとも理解できないものごとは、何も春服だけに限った話ではないが。

 アイスコーヒーを啜り、それから煙草に火をつける。一口目を吐き出してから再びフィルターを咥えると、今度は深く深く肺まで煙を吸い込み、ゆっくりと時間をかけて吐き出した。ほとんど透明な薄い煙は、漂う間もなくすぐに空中に溶ける。それを見るともなく見ながら、真白と過ごしたあの時代を思い出していた。


「優衣はいいよね、いつも脳天気で」と言ったあの真白の眼を、ぼくは生涯忘れることができないだろう。今でもありありと脳裏に浮かぶ、軽蔑に満ちた冷たいまなざし。腐った生ゴミをうっかり視界に入れてしまったときのような、あるいはスマートフォンの画面に流れてきたえげつない性犯罪のニュースを目撃してしまったときのような、そういう種類の眼だった。

 それがいつどんな文脈で放たれたものだったのか、ぼくには思い出すことができない。ただその冷え切った地下室から持ち出した刃物はよく研がれていて、ぼくの心臓を一息に貫いた。あまりにも一瞬のことだったから、ぼくはそのとき、何も言い返すことができなかった。刃物が貫通したその傷口は、もう何年も塞がることなくかさぶたもできず、かといって膿むこともできずに、現在進行形で血液をだらだらと流し続けている。胸に手を当てると、血の流れる音を今も聞くことができる。

 しかしぼくが真白を嫌っていたのは、そのことが原因ではない。高校入学直後、初めて彼女を見たときから、ぼくは彼女を嫌っていた。清く正しく美しく、清廉潔白な歌うたい。幼少期から声楽を学んでいたらしい彼女は、合唱コンクールでも文化祭でも引っ張りだこだった。もっとも音楽に関する教養の皆無なぼくには、彼女の歌のうまさやすごさなど、ちっともわからなかったけど。

 それなのにぼくは、彼女に嫌われることを異様に畏れていた。今も、ぼくの心臓の生傷に塗り込む塩となっているのは、彼女からの嫌悪と軽蔑だった。

 そしてぼくは、今日、とある決心をしていた。彼女に今日、ぼくが小説を書く人間であるということを打ち明けよう。あなたが見下すほどにぼくは空虚な存在ではないということを、証明しよう。これは和解なんかではなく、ただそれを誇示するためだけの、己の名誉を取り戻すためだけの邂逅なのだ。

§

「優衣?」透き通ったその声は、すぐにそれとわかった。十年聴いていなくとも、案外覚えているものらしい。いや、彼女の声がそれほどにとくべつということなのだろうか。

 しかしながらiPhoneから顔を上げると、ぼくはしばし呆けてしまった。そこにあるのは、たしかに真白の顔だ。ぼくの顔を覗き込むその相貌はたしかに真白なのに、それに間違いはないのに、あまりにも「ふつう」すぎた。清く正しく美しかった女の子は、どこにでもいるふつうの女性になっていた。

「ひさしぶり、待たせちゃってた?」と真白は言う。口元に浮かべられた微笑に、気まずさの色は微塵も見えない。紙やすりでやわらかな神経をざらりと逆撫でされて、ぼくは咥えていた煙草をやや乱暴に灰皿に押し付ける。
「いや、こっちが早く着いちゃっただけ」できるだけ声が上擦らないよう、意識して答える。

「そっか、それならよかった」と真白は胸を撫で下ろした。「ねえ、向こうの禁煙席に移動しない? わたし煙草が苦手で」
「苦手なだけ?」
「え?」と、真白はそのつぶらな瞳をぱちくりと瞬かせた。
「苦手なだけだったら、」ぼくは、と言いかけて、かろうじてそれを引っ込める「──私はここを動かない。私は煙草を吸いたいし、あなたの苦手にも、その喉にも、配慮する義理はないよ」

 彼女の提案は予想していたから、あらかじめ返答は用意していた。心臓は胸の下でうるさいくらいに収縮し、鮮血を流す音がどくどくと体内に響く。
 真白は面食らったように、しばらく黙り込んでいた。
「もしあなたが喘息持ちだったり、健康上の被害を受けることが確定しているんだったら、もちろん席を移動する。でもそうじゃない限り、私はここで煙草を吸う」
「優衣ってさ、わたし以外の人には絶対そんなこと言わないよね」と真白が困ったように眉根を寄せる。

「その呼び方は嫌いだって、在学中何度も言った」
「うん、覚えてる。でもわたしの信条では、他人をニックネームで呼ばないの」と真白は言う。この子のこういうところがたまらなく嫌いだったな、とつい昨日美貴と交わした会話を思い出す。

「それが相手を傷つけるものだとしても?」とぼくは言う。「あなたのその信条とやらは、たとえ相手の尊厳を踏みにじるものだとしても、貫き通さなきゃならないの?」

 真白は視線をおよがせ、下唇を噛んだ。考え事をするときに下唇を噛むのは、彼女の十代のときからの癖だった。しかしながら彼女がうようよと目を揺らすのは、初めて見た気がする。そして彼女は言った。「あの呼び方が、それほど深くあなたを傷つけるものだなんて知らなかった」
「なぜ嫌かをあなたに知らせること自体が、私を損なう行為だった。だから昔も今も、あなたに理由を教えるつもりはない。でも嫌だという意思表示は、当時もしてたし今もした」

 真白は顎を引く。「ごめんなさい」そして続ける。「たしかに気管支の疾患や喘息は抱えていないけど、それでもわたしにとっては歌はとても大事なものなの。きっとあなたが名前で呼ばれたくないのと同じくらい」
「私にとってそれがどのくらい大事かなんて、あなたは知らないのに?」とぼくは言う。知ろうともしなかったくせに、と続けるのは、すんでのところでこらえる。

 彼女は口を引き結び、一瞬黙る。「そうだね、知らない。訂正する。だから、今回は譲ってもらってもいいかな?」
「わかった」と、一呼吸置いてぼくは言った。

 午後三時を過ぎると、渋谷の奥にある比較的マイナーな喫茶店とはいえ店内はそれなりに混んできた。ぼくと真白は喫煙席を出て、店内のいちばん奥にある壁付きのテーブルに座った。彼女はこのうららかな気候で、キャラメルラテをホットで注文した。喉に悪いから冷たい飲み物は飲まないの、とかつても言っていた。

 そういう神経質なところは、あのときの彼女のままだ。信条もなにもかも変わってはいないのに、それでも確実に、今の彼女はかつての彼女と別人だった。真っ青なワンピースから伸びる手足はあのころとおなじく透けるほど白いのに、しかしながら肉付きはいくぶんか健康的になっていた。記憶の中の彼女の手足はもっと棒のようで、見るからに不健康そうだったのに。ちなみに彼女が冴えた青色を着るのも、初めて見た。十代の彼女は、青色なんて──しかもこんなに鮮やかな青なんて、着なかったはずだ。言い切れるほどに彼女について知っている自信はないけれど。

 氷が溶けてぬるくなったコーヒーを、ストローですする。
 真白もカップを両手で持って、大事そうに口をつけた。それから言った。「今、仕事はなにをしてるの?」
「文章を書いてる」
「え、小説とか?」

 頷くかどうか逡巡して、そしてやめる。それはまだ、“仕事”ではない。「いや、エッセイとかコラムとか」
「雑誌で連載してるの?」
「雑誌もだし、WEBでも」なおも聴きたそうな彼女を遮るため、「あなたは?」と聞き返す。
「今はね、医療事務。アルバイトなんだけどね」
「へえ、ちょっと意外かも。音楽関係じゃないんだ? てっきり、プロの歌手になるのかと思ってた」そうならなくてよかった、とぼくは思う。実のところ彼女が商業的歌手を現在は目指していないことを、ぼくは美貴やその他同級生からの風の噂で知っていた。もちろん真白だって、そんなのはお見通しだろう。

「うん、昔は目指してたんだけどね。そのうちお金が発生することに対して、抵抗が出ちゃったんだ」
 ぼくはあいまいに頷く。それ以上素直に耳を傾け続けていると、彼女の世界に呑まれてしまうことを知っていたから。
「あのさ」と、ぼくは切り出す。「なんで私のこと、嫌いだったの?」

 真白はカップから口を離すと、縁についたコーラルピンクのリップを指先で拭った。そして言った。「あのころってさ、思春期だったでしょ? 受験もあったし、みんながみんな自分のことで頭いっぱいだった」
 ぼくはすっかり水っぽくなったコーヒーを吸い、黙って彼女の続きを待つ。

「それはもちろん、わたしもそう。あなたもふくめて、たくさんの人を傷つけたし、そして傷つけられた。だからあのころのそういうものごとすべてに対して、わたしはだれからも謝ってもらう必要はないし、だれにも謝る必要はないと思ってるのね」
「よくわからない」とぼくは言う。「私がだれかを傷つけることと、だれかに傷つけられたことはまったくべつの問題だから」
「あなたはそう考えるんだね」と彼女は言う。
「私とあなたはべつの人間だから」

 真白はそれに対して顎を引いた。「それでね、あなたを嫌いだった理由なんだけど──」束の間、彼女の言葉が途切れる。半端なところでぶつ切りにされたそれは、しばらくのあいだ頼りなく空中にぶら下がっていた。「きっとあなたが想像しているような理由じゃないの」

 ぼくは無意識に煙草の箱に手を伸ばすが、つい今しがた禁煙席に移ったばかりだということを思い出して、所在のなくなった手の行方を持て余す。
「ねえ、わたしって昔、『あなたの頭にはゴミみたいなものしか詰まってない』って言ったの?」
「え?」
「この発言はわたし、正直覚えていなくて。高校時代のわたしは、あなたにそんなひどいことを言った?」

「その通りの表現ではないけど、ほとんど同じ内容のことは言われた」とぼくは答える。
「そっか」真白はつぶやく。そのことについてどうにか思い出そうとしているのか、あるいはぼくに訊ねるべきか考えあぐねているのか。
「その話はとりあえずあとにしよう」とぼくは言う。「あなたが私を嫌っていた本当の理由を教えて。私は今日、それを訊きに来た。私がこの先、健やかに生きていくために」

「そうだね、もしあなたが言いたくなったら聞かせて」と真白は言う。「あのね、あなたを嫌っていたのは、単純にあなたがわたしの好きな男の子と仲が良かったからだよ」

 ぼくはしばし彼女の両目を食い入るように見つめた。それはあまりにも予想していなかった答えだったし、その「男の子」がだれを指すのかすらぼくは分からなかった。正直にそう言うと、彼女は苦笑しながら「男の子」の名前をあげた。しかしぼくはすぐに思い出すことができなかった。

「バスケ部の子だよ。背の高い、黒髪の子」彼女が教えてくれた特徴を頼りに、十年前の記憶の糸をどうにかずるずる引っ張ってくる。なんとなくそれらしきかつての同級生の顔を、おぼろげながら見つけることに成功した。それは卒業したきり一度たりとも連絡を取ったことのない、すでにぼくの人生からは退場した人物だった。

「べつに彼とはとくに仲が良かった覚えはないんだけど」とぼくは言った。「同じクラスだったから、しゃべる機会はあったと思う。でもそれだけだ」
「だけど、あなたも彼のことを好きだったんじゃないの?」
「なんだって?」とぼくは思わず大声で聞き返す。
「だって、彼とあなた、よく本の貸し借りをし合ってたじゃない。登下校も一緒にしてたでしょ?」

「それは好きな作家と通学の電車が同じだったってだけだ」とぼくはあえぐ。「彼に恋をしたことなんて、一度もない」
「本当に?」なおも彼女は食い下がる。「もしそれが本当だとして、男子と女子がしょっちゅう二人きりで過ごしていたり、行動を共にしていたり、親密そうにしていたら、そういうふうに思うのもふつうじゃない?」
「それはあなたのふつうだ」たまらずぼくは語気を強める。「あなたの世界には男と女しか住んでいないってだけの話だろう。でも私の世界はそうじゃない」

 真白がびくりと肩を揺らす。「それって、」
「このことについては説明しない」鋭く彼女の問いを遮る。「ただ、あなたの頭の中で勝手に私のことを結論づけたり、それを吹聴したりすることだけはやめて」

 ぼくの言ったことを、彼女は理解できていないみたいだった。しかしぼくの口調があまりに鬼気迫っていたからか、腹話術の人形よろしくかくかくと頭を振った。「そんなことしない。だからあなたも、わたしとこうして会ったことを共通の友人には」
「言わない」と、ぼくは言葉の残りを引き取る。「約束する。ここでの話を口外したり、自分に都合よく捻じ曲げて広めたりもしない。──本題に戻ろう」
 真白はゆっくりと、ためらいがちに頷く。

「私のことを嫌いだった理由は、私があなたの好きな男の子に恋をしていたと思い込んでいたせいだったんだね?」
「うん。あとね、それからもうひとつ。二番目の理由があって」
 ぼくは顎を引き、続きを促す。
「あなたってさ、いつも情報過多だったじゃない」
「情報過多?」

「いろんな人と交流してて、いろんな人の話を知ってて、いろんなことを考えてて、いろんな気持ちを持ってて。だから近づきすぎると、呑まれちゃうような気がしてたの」
「自分ではよくわからないな」とぼくは言う。「ただ、あなたからはそう見えてたってのはなんとなく想像がつくよ。あなたは周囲を断絶してたから」

 真白は苦笑する。「あのころね、自分を真に理解してくれる人はほぼだれもいなかったの。本当に心を打ち明けられたのは、それこそ美貴くらい」
「あなたこそ、周囲を理解しようなんてこれっぽっちも思ってなかったんじゃない」とぼくは言う。「すくなくとも、私の目にはそう見えた。校内でもいつだってイヤホンをして、自分の世界に入り浸りだったし」
「それもあると思う」真白は肩をすくめる。「わたし、お嬢さまっぽいって言われること、よくあったでしょ?」
 ぼくは頷く。

「あのとき、みんながわたしのことを遠巻きにしてたの。ほとんどの女子がわたしに対して『なんの苦労も知らないお嬢さまには私たちの考えてることなんて分かりっこないよね』って思ってた。あなたはどうかわからないけど、わたしはそう感じてたの。ほら、女子ってそういうねちっこいとこあるじゃない?」

「女子全員がねちっこいだなんて私は思わないし、あなたを遠巻きにしていたのは女子だけではない」とぼくは訂正する。「ただ、あなたの言わんとしていることは、なんとなくわかるよ」
「だからそういうところがない美貴には、わたしのすべてを打ち明けることができてたの。あのころのわたしにとって、美貴は魂の片割れだった」
「ソウルメイト」とぼくは言う。
「そんな感じ」と彼女はほほ笑む。

 形の良い薄いくちびるが上品にカップの淵にくっつき、リップの跡を残す。そのコーラルピンクは、どこまでも陳腐だった。すっかり氷が溶けて汗をかいたアイスコーヒーのグラスのように、ぼくは醒めていった。

「そういえば、あなたが美貴と仲良くなったなんてけっこうふしぎ。偶然同じ大学だったってだけでつるむタイプじゃないでしょ、ふたりとも」
「そういえばそうかも」とぼくは肩をすくめる。
「美貴とは卒業後もけっこう会ってるの?」
「わりと頻繁に会ってるほうかな、月一では必ず顔を見てる気がする」
 え、と真白が声にならない声を漏らす。「そんなにしょっちゅう?」

 彼女の反応の意味がわからず、ぼくは戸惑いながらも頷く。「まあ、しょっちゅうといえばしょっちゅう。なんで?」
 真白はかちゃりと音を立ててカップをソーサーの上へ戻す。その音はかつての彼女には似つかわしくないほど、あまりにも世俗的だった。たっぷり十秒ほど逡巡したあと(逡巡にこれだけの時間を費やせるところも、あのころの真白とまったく変わっていなくてぼくの神経を逆撫でする)、「──ううん、なんでもない」と言った。その声は真夏の室外機みたいに震えていた。
「え?」
「なんでもないの。そういえば美貴ってそういうとこあったなって。元からそういう子だもんね、あの子」
「そういう子って、どういう子」
「過去の人間関係に固執しないっていうか、ドライなとこあるじゃない」

 それを言うんだったらぼくと美貴だってすでに過去の人間関係なんだけど、と言いかけて、やめた。目の前にいるこの女の子は、確実に真白だ。でも、かつてのとくべつな美しさは、年月とともに彼女のうちから削がれてしまったようだ。彼女はあまりにもさまざまなものごとについて無神経過ぎたし、もっといえば想像の何十倍も図太かった。その眼は何もかもを見透かせるほど鋭利ではなく、ただ鈍く光を放っているだけだった。

「美貴がドライかどうかは、私にはわからない」とぼくは言った。「そろそろ出ようか、日も沈みかけてる。夫が夕飯の支度をしてくれてるから、遅れるのは申し訳ないし」
「そうだね」と彼女は立ち上がり、ウォールラックにかけていたポシェットを取った。


 友人とも他人ともつかぬ距離を保ちつつ、ぼくと真白は並んで歩く。スペイン坂を下り、センター街を突き抜け、工事に工事を重ねて迷路のような巨大ダンジョンと化した渋谷駅を目指す。

「ねえ、わたしが昔言ったひどいことって、結局なんだったの?」と、不意に真白が言う。それはおそるおそるといった様子の、昔の真白からはとうてい出てこないような遠慮がちなトーンだった。彼女はいつだってぼくを──彼女から見て凡庸でつまらない頭にゴミのようなものしか詰まっていないぼくを、あからさまに見くびっていたから。

「ああ、もう解決したからいいや」とぼくは答える。放るようにして投げたその言葉こそ昔の真白のようで、内心ぼくは苦笑する。
「そっか」と真白は顎を引いた。「それならよかった、うん」

「私、山手線だけど」東急のウィンドウの前、地下に降りる階段前に着くと、ぼくはそう言った。
「わたし東横線だ。それじゃ、ここでばいばいだね」とうとつに、真白が右手を差し出してくる。「会ってくれてありがとう」

 ギターのピックだか弦だかなんだかであちこちたこができている白い手を凝視し、それから顔を上げた。真白の顔は、ぼくが思っていたよりずっと美しくなかった。そこにあったのは醜くもなければ、これといった特徴もない、どこにでもいる凡庸な、二〇代後半の女性の顔だった。このたぐいの顔は、それこそこの渋谷には溢れかえっている。そんなことをぼんやり考えながら、ところどころ硬さを感じる痩せた手を握る。「こちらこそ」

「うん、またね」彼女はにっこりと笑うと、東横線のホームへ通じる階段を降りていった。冴えた青いワンピースは、彼女から浮き上がっていた。
 その背中を見送ってから、ぼくはJR改札前の端っこで煙草を吸った。薄い煙の向こうの凡庸な人たちを眺めながら、ぼくは彼女に小説を書く人間だと打ち明けなかったことを思い返していた。

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「真白ってあんな感じだったっけ?」美貴に手渡されたよなよなエールのプルタブを開けながら、ぼくは訊く。
「さあ、どうかしら」美貴は肩をすくめ、それからスーパーの惣菜売り場で購入したチャプチェと唐揚げをヒロに押し付ける。せめて運んでってお願いしてよ、とヒロが口を尖らせるが、彼女は無論取り合う気などない。「あの狭い世界の中ではそう見えてただけだったのか、あるいは本当に真白がつまんない人になっちゃったのか、それはわかんないけど。でもその変化は正直、私も感じてたわ」

 真白と会った翌週、ぼくとヒロは夫と別居を始めた美貴の新居を訪ねていた。もちろんぼくたちはその日中に帰るつもりなどさらさらなく、お泊まり会前提で寝巻きやらなんやらを持参している。ぼくはすでに先に風呂を借り、もうスウェットに着替えてダイニングテーブルに着席していた。

「真白ってもっと、なんかこうさ、キラキラキラってしてたじゃん。わたしは特別よオーラっていうの? ツンツン気取ってたし、この世のこともあなたの心もぜーんぶお見通しよって顔して廊下を闊歩してた覚えしかないんだよね」とぼくは言い、ぐびりとビールを一口飲む。喉越しに歓喜のうめき声を上げると、すかさずヒロが「ゆんちゃん、おっさんみたい」とからかってきた。うるせえ黙れ、と横目で睨む。

「あの狭い古いきったない廊下を、イヤホンつけて肩で風切ってね。私も覚えてる、あれはかっこつけ過ぎだったわ。今思い出してもちょっと笑える」と美貴が言う。
「あと、学年一可愛いくらいの勢いで持てはやされてたのに、とてもそんなふうには見えなかった。たしかに可愛かったし、ブサイクなんかじゃなかったけど、なんていうか」
「つまんない顔ってこと?」とヒロがすかさず突っ込む。アルコールの受け付けない彼は、コカ・コーラの瓶を握りしめてラッパ飲みしている。そしてぼくの隣の椅子を引き、なにこれ見たことねえよ絶対うまいとスーパーで大騒ぎしながら彼自らカゴに放り込んだトリュフ風味のポテトチップスを開封した。

「香りがまじでトリュフだ」とぼくは感激する。ヒロが2枚つまみ上げ、ぼくの口と自分の口にそれを放り込んだ。「味もトリュフだ」
「これはやべえ」
「開発した人天才なんじゃない?」
「今年のゆんちゃん大賞・ポテチ部門有力候補?」
「余裕でぶっちぎり」
「ポテチの味の感想はいま心底どうだっていい」美貴がため息をつきながら、ぼくの正面の椅子に座る。「真白の話はどこ行ったのよ」
 ポテトチップスをぼりぼり咀嚼し、それをビールで流し込んでから言う。

「つまんない顔っていうか、どこにでもいそうな顔してた。もちろん彼女を好きな人は、彼女の顔を可愛いと思うんだろうけど」
「卒アル見せてもらったとき、俺その子のこと『たしかに可愛いっちゃ可愛いけど、めちゃくちゃ整ってるとかってわけじゃないよな』って言ったのに、二人とも信じなかったじゃねえかよお」とヒロがくちびるを尖らせる。

「みんなででっちあげたフィルターを通して見ちゃってたんでしょうね、当時は」
「まあ、学校っていうちっさい世界じゃ起こりがちの魔法なのかもなあ」
「魔法がとけた歌うたいってか」
「あ、まさにそれ」とぼくはチャプチェを頬張りながらヒロを指さす。「そんな感じ。魔法がとけたんだよ、思春期という名の」
「今夜は寝る前にせっちゃんを聴くしかない」
「せっちゃんって?」と美貴が訊く。

「斉藤和義のあだ名だよ」とぼくが答える。「学生時代にセックスしてぇって連呼してたら、あだ名がせっちゃんになったらしい」
「なにそれ、ばっかじゃないの」と美貴が眉を顰める。
「そう、せっちゃんはばかだ。そして天才だ。俺たちの星だ」
「同左」とぼくが挙手をする。

「それでゆんちゃんは、もう大丈夫なの?」と唐揚げを箸で突っつきながら美貴が訊く。しかしながらとんでもなく不器用な彼女の手先ではうまくつまみ上げることがかなわず、最終的にぶすりと串刺しにして口に運んでいた。
「うん、すっきりしたかも。みんなが崇拝してたほどとくべつな女の子なんかじゃなくて、清廉潔白でも清く正しく美しくもなくて、感受性が飛び抜けて豊かとかでもなくて、ふつうの人だったんだなってわかってよかった」
「べつに繊細ってわけでもないしね、あの子」と美貴がくちびるを歪ませる。「わりにいい根性してるわよ」

「そういえばぼくと美貴が月一で会ってるって言ったらなんかびっくりしてたけど、もしかしてあんまし真白と会ってなかったの?」
 ぷしゅっとプレミアム・モルツを開封しながら、美貴は苦笑する。「実を言うとね、けっこう避けてたの」
「まじで?」とぼくは目を見開く。「そうだったの? いつから?」
「いつからだったかしら。はっきりとは覚えてないけど、それこそ卒業して、あの子が実はふつうすぎるくらいふつうだって気づいたあたりからかも」

「幻滅したってこと?」と、ヒロがポテトチップスを頬張りながら言う。気がつくとトリュフ味のぼく的大賞・ポテチ部門最有力候補はすでに三分の一に減っていた。ぼくは残りを死守すべく、彼の手から袋ごとそれを奪う。
「っていうより、身の丈に合ってない自意識の高さに疲れ切っちゃったって感じかしら」

「うっわ辛辣」とぼくは噴き出し、ポテトチップスを一枚つまんで彼女のくちびるに押し付ける。「正直者のあなたにはとくべつなトリュフ味のポテチを贈呈しよう」
「ゆんちゃん、このあいだ私のこと底意地の悪い女だって言ってなかった?」言いながらも彼女は素直に口を開ける。

「このあいだはこのあいだ、現在は現在だ。ぼくたちは常に現在を生きている」
「過去は振り返らない」とヒロが同意する。
「セックスもしたい」とぼくが言う。
「でも俺の場合、準備が大変だ」
「拡張ってやっぱ痛いの?」
「それは慣れた。俺的にはシャワーで洗浄するほうが心理的にきつい」
「汚いわね、食べてるんだからやめてよ」と美貴が喚く。


「あれ、ヒロはもう寝たの?」とシャワーから戻ってきた美貴が髪を拭きながら問う。視線の先には胎児のように身体を丸めてすうすうと穏やかな寝息を立てるヒロが、床に敷かれた客用布団の上に転がっている。

「おかえり」彼と美貴のベッドに挟まれたもうひとつの布団で文庫本を読んでいたぼくは、それを閉じて顔を上げる。「三秒くらいで眠りの世界へ入っていった。ヒロ、アルコール一滴も飲んでないのに」
「いつものことだけど、いちばん飲んだくれた人間みたい」
「あるいはコーラで酔える体質なのかも」とぼくは肩をすくめる。
「あり得るわね」と美貴は言い、スマートフォンを充電器に刺した。ベッドに腰掛け、赤みがかったブラウンに染めた長い髪をタオルではさみ、丁寧に水気を取っていく。

 それを見るともなく見ながら、不意に沸いた疑問を口にする。「あのさ、ぼくと真白が似てるって美貴は言ってたけど、どのへんが似てたの? 身の丈に合わない自意識?」
 美貴が盛大に噴き出す。

「ええ、やっぱしそこ? それってひどくない?」
「自意識の噴出の仕方は正反対だけどね」と美貴は言う。まだ喉の奥でくつくつと笑っているのが、ちょっと憎たらしい。「でも、私はゆんちゃんの自意識のかたち、けっこう好きよ」
「それはどうも」とぼくは言う。

「あの子はためらいなく、そして惜しみなく垂れ流しちゃうタイプだったし、そこがあの子をとくべつに魅せてたんだと思う。だから私、あの子との付き合いを断ち切ることができなかったのよ。とくべつな子にとくべつに好かれていたら、自分もとくべつだって思えるじゃない?」
「わかる気がする」とぼくは頷く。「だからきっと、彼女に嫌われていることに我慢ならなかったんだ。自分だって彼女を嫌いなくせに」

「ゆんちゃんはね、自分の中に押し込めて、硬い殻で覆い尽くして、なんでもないふりを貫こうとするんだけど、漏れ出ちゃってるのよ。全然隠せてないの。そこが私は愛しいと思う」
「最悪だ。人の恥部をあっさり暴かないでくれる?」
「きっとあの子も、ゆんちゃんのそういう部分にイラついてたんじゃない? 自覚があるかどうかはわからないけど、きっと好きな男の子云々だとか情報過多だとかっていうのは、建前よ。ゆんちゃんに嫌われてるのが、あの子も悔しかったのよ」
「とくべつじゃないと言われているみたいで?」

「あくまで予想だけどね」と美貴は言う。それから立ち上がって冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出し、二つのコップに注いでくれた。ぼくはその後を追い、それらをベッドサイドまで運ぶ。

「ゆんちゃんはね、ちゃんととくべつよ。あの子がとくべつだろうが清く正しく美しかろうがそうじゃなかろうが、あなたはあなたとして、きちんととくべつなの」と美貴は言う。
「そうだね」とぼくは言う。「そして美貴も、とくべつだ。清く正しく美しくても、そうじゃなくても」
「清く正しく美しいとくべつなんか、つまんないのよ。私が惹かれるのは、いびつなとくべつさ」そのことを忘れないでねゆんちゃん、と美貴は微笑んだ。

 数ヶ月後、Instagramの真白のアカウントが表示されなくなっていることに気づいた。いつからだったのかはわからない。それほど神経質に彼女のアカウントを見ていたわけではなかったし、だいいち彼女の存在はもうぼくの中で風化しかけていたから。ブロックされたのか、はたまた彼女のアカウント自体が削除されたのか。ぼくにとってはもはや、どうでもいいことだった。

「またね」、と彼女は言った。あれは本心からの言葉のように聞こえたが、ぼくは二度と会うことはないと悟っていた。美貴も含めていつか三人で、という意味に受け取れなくもなかったが、それは叶わないことだとも知っていた。

 美貴は徐々に真白との付き合いをフェードアウトしていった。今ではもう、連絡も取っていないらしい。


 さようなら、魔法がとけた歌うたい。あなたがぼくを嫌いでも、ぼくを軽んじようとも、ぼくはどこまでもとくべつだ。そしてきっと、それはあなたも。ぼくがそう思うか思わざるかにかかわらず。

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