文章を「舌ったらず」と評されて、真っ赤な原稿に半泣きで取り組んだ日々のこと。
「君の文章はなんというか、舌ったらずだよね」
大学院1年目、最初の修士論文中間発表を終えた直後。ぼくのレジュメに目を落としながら指導教官が放った台詞に、ただぽかんと間抜け面を晒すことしかできなかった。
「え、下手くそってことっすか」20代前半、怖いもの知らずで無鉄砲だったぼくは、無鉄砲すぎるあまりあろうことか直球でそう訊き返した。そんなのたしかめたって己の傷口を抉るだけだってことを、このときのぼくはまだ理解できていなかったのだ。
「う〜ん、なんていうか……」優しいおじいちゃん先生は、慎重に慎重に言葉を選ぶ。ここで学生の気持ちを挫いてはいけない。そんな気遣いが感じられる数秒の逡巡のあと、「長い文章を書くのに、ちょっと慣れていなさすぎる」と先生はついに口にした。
嘘でしょまじかよ、今それ言う? すでに修士に進んだあとなのに、今そんなこと言っちゃう?! せめて卒論のときに、学部生のときに言ってくれよ〜〜〜そんなこと言われたってもう進学しちゃったんだから修論書かなきゃじゃん〜〜〜などと言い返せるはずはもちろんなく、「はあ」とか「へえ」とか腑抜けた相槌を打ってぼくはすごすごと指導教官の研究室を後にした。
当時すでにWEBマガジンで簡単なコラムを書く仕事を請け負っていたぼくにとって、その言葉はあまりにもダメージが大きすぎた。そしてアイデンティティ崩壊の危機を迎えた。というのもこれまでの人生、「ちーちゃんは文章が上手だね」と大人たちに褒めそやされて送ってきたのだ。
特技・長所の欄にはいつだって「文章」と書いてきたし、いわゆる作文で苦労したことなど学生生活において一度たりともない。むしろ文章だけが唯一無二の「ぼくが誇れる武器」だと思い込んでいたのに。まさかの遠回しの「下手くそ宣言」を、指導教官直々にいただくことになるとは。
あまりに悲しく辛い現実に涙を飲み、校門付近にそびえ立つワカメみたいな謎のでかいオブジェを横目にバスで揺られる帰り道。でも思い当たる節は、それこそ学部時代、つまりは卒論のときからあった。ぼくは子どものころから小説ばかり読んできて、いわゆる「新書」や「専門書」にはほとんど手を伸ばさなかったのだ。
しかも読むのは決まって翻訳ものばかり。青い鳥文庫には目もくれず、岩波少年文庫を養分にぐんぐん成長したぼくは、文学好きが一度は通るといわれる文豪──太宰治や三島由紀夫、中原中也、谷崎潤一郎、川端康成を全員華麗にスルーして、欧米文学に傾倒しまくった。
小学校高学年でヘルマン・ヘッセに手を出し、中学時代にはドストエフスキーのカラ兄を読破。思春期にのめり込んだ日本の作家は「同級生がみんな読んでいたから」というなんとも安直な理由で手を出した村上春樹くらいで、そこからは現代アメリカ文学を中心にズブズブに翻訳沼にハマっていった。つまるところ、「最初から日本語で書かれた文章」に触れる機会を逃しまくってここまで──大学院生まで至ってしまったのだ。恐ろしいことに。
翻訳文にデメリットがあるとか、べつにそういう話をしたいわけじゃない。ただ日本語の骨格を掴みきれていなかった、ということだけは推測できる。それに使われる語彙の特徴にも、偏りは出てくるだろうし。文学専攻じゃないからよくわかんないけど。
とにもかくにも、「物語」でなく「翻訳」でもない「生の日本語で書かれた文章」のインプットがほとんどなされていないぼくの書く文章は、先生に言わせれば「やわらかかった」。難しい言葉、熟語をほとんど使わず、論理的に展開していく文章をそもそもきちんと読み込んだことがないんだから、「論文」が書けないのはそりゃ当たり前だ。卒業論文のときにはそういう甘さには目を瞑ってもらえていたけれど、修士論文となるとそうはいかない。
今まで「文章がうまい」と言われ続けていたのは、小説をそれなりに読んできた蓄積があったというだけの話。先生が言いたかったのは、「ここから先は小手先じゃ通用しないよ」ってことだったんだと思う。
そこからはもう、がむしゃらだった。「文章が上手なちーちゃん」というアイデンティティを取り戻すべく、躍起になった。
先生が真っ赤なインクの万年筆で丁寧に朱入れをしてくれた原稿を、とにかく毎回目を皿にして確認した。優しくて面倒見の良い先生だったから、中間報告はマメに2週間に1度、一対一で行ってくれた。疑問点はすべてその場で洗い出し、その場で解決するように努め、先生の指導に必死で食らいついた。先生はぼくが納得いくまで何時間でも、ひたすら議論に付き合ってくれた。ぼくの説は否定せず、「たしかにそれも考えられるね、じゃあ次はここを掘り下げてみよう。この本も読んでみるといいよ」と無料で大量の文献を惜しみなく与えてくれた。
そしてバスに乗り込み巨大ワカメを尻目に帰路について、帰りの埼京線内で真っ赤な原稿と睨めっこを始めるのだ。そのまま上島珈琲に寄って、赤い原稿とMacBookの画面を照らし合わせて推敲を重ねる。同い年くらいのバイトの兄ちゃんが閉店を告げに来るまでその作業に没頭し、帰宅後はもらった文献を読み込みベッタベタに付箋を貼りまくる。翌日には近所の図書館に出かけ、文献とMacBookを広げて血眼で執筆する。その2週間後に、再び先生と面談をして原稿に朱を入れてもらう──このサイクルをひたすら繰り返し続けた。
2年目の夏は嫌になり過ぎてなんと2ヶ月もニュージーランドに逃亡したのだが、それでもワカメのオブジェがクリスマスツリーよろしく電飾でピカピカ光り始める季節(我が母校はなぜこんなシュールもとい狂気の沙汰みたいな飾り付けを毎年欠かさず行うんだろう? なにもクリスマスだからといってワカメに電飾を巻き付けなくてもいいだろうに。都会の私大への憧憬をこじらせて「オシャレなイルミネーションがキャンパス内にある大学」を目指したんだろうがだれがどう見たってネタでしかない)を通り過ぎ、年明け。
寝食の暇も惜しんで書き上げた原稿を製本し、締切当日5分前に滑り込みで修士論文を提出した。「本当によく書き上げましたね」と、先生は最後の中間報告──というか面談で言ってくれた。「あなたらしくのびのび書いた、とても良い論文だと思います。最初に比べると、文章も段違いに上手くなった」
修士の2年間、ぼくの文章を「舌ったらず」「ぶつ切り」「美しくない」とぶった斬りまくって原稿を真っ赤に染め続けた先生だが、それでも匙を投げずに面倒を見てくれたのは「発想はいいから」だったらしい。「あなただけにしか辿り着けない答えがある」と、いつだったかちらりと言ってくれた。
「ぼくにしか辿り着けない答え」。それがなんなのか、まだぼくにはわかっていない。でもそれを見つけるための、基礎の基礎、土台を固めてくれたのは、間違いなく先生だった。もしかしたらそれを見つけてくれたからこそ、先生はあえて「舌ったらず」なんて言葉を院進後のぼくにぶつけたのかもしれない。
先生が朱を入れ続け、年末の大雪の日に「この節がどうしても行き詰まっちゃってもう無理です助けてください」というなんとも情けなさすぎるぼくの半泣きメールにも対応し、手書きで赤く染めた原稿をその日のうちに投函してくれたのは、「ぼくが頭に描いていることをそのまま文字に写しとる技術」を授けたかったからなのかな。「ぼくにしか辿り着けない答え」を持っているのに丸腰だったぼくを、もどかしく思ってくれていたのかな。
「舌ったらず」って、選び抜かれたワードだ。「下手くそ」と切り捨ててしまえば芽を摘んじゃいかねないし、「もう少し練習しようか」だけだと優しすぎて危機感を煽りにくい。絶妙な言葉だな、と振り返って思う。
書く仕事を本業にできたのは、間違いなく「技術」を根気強く授けてくれた先生のおかげだ。自分の原稿に納得がいかないとき、今でもぼくは先生に教えらえた基礎に立ち返る。適切な文献に当たり、書いた原稿を片面印刷し、紙に手書きで朱を入れる。それらをけっしてホチキス留めなどにはせず、机に並べて俯瞰する。全体を見渡す。流れを確認する。書くべきところに書くべきことを書き、甘いところは徹底的に掘り下げて補強する。そして、「舌ったらず」になっていないか、すみずみまで確認するのだ。
「舌ったらず」が今もなお、ぼくを奮起させるエンジンそのものになっている。ちなみにnoteを始めたきっかけは、先生が最後の面談の日に「こういう内容をブログみたいなところで書いてみてもいいかもね、君に共感する人はたくさんいると思う」と言ってくれたからだったりする。
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