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かさなりあう時間と風景

あたらしい年になりましたね。
年明けはすこしnoteをお休みしていたため、ご挨拶が遅くなりましたが、旧年中はたいへんお世話になりました。ほんとうに、ありがとうございます。


年末年始は、ふるさとですごしていました。


かまどで炊いたお米で杵つき餅をつくったり、みんなであれこれ喋ったり、子どもたちと遊んだり。にぎやかに楽しく、すごしていました。

亡くなった祖母が、いつも年始に「おだやかなお正月で」と深くお辞儀していたすがたが忘れられないです。戦争を経験し、農作業に明け暮れた祖母。
私のふるさとはとても風がつよく、とくに冬は北風がずっとふきやまないようなところで、冬晴れの、風のおだやかなお正月というものが祖母にとってどんなふうだったか。おだやかさ、について、しばらく考えました。



家族は好きです。集まることも楽しい。でもいつも、帰省から戻るとしばらく寝込んでしまいます。
家族といること、にぎやかであることに、からだがなかなかついてゆけず、たぶんかなり無理をしているのだと思います。
今回は、失礼なのはわかっていたけれど、途中抜け出して、ひとり田んぼ道を歩いて、やすむ時間をとりました。冬枯れの草花を見て、草木にふれて。

写真を撮っているときに父が来て、すこし話しました。
おたがい寡黙で社交が下手なので、面とむかってもろくに話せなくて、ふだんはテキストメッセージでやりとりするほうが多いのですが、ぼうっと風景を見ながら野の花ごしにぽつぽつ話すくらいだと、緊張しなくてよかったです。

さいきんフィルムカメラをはじめたんだ、ということを伝えると、そうなんだ、と言っていました。まともにつとめきれない仕事やくずしがちの体調のこと、ものを書いていること、そういうことにはあえてふれないでいてくれて、なんにも聞かず、フィルムなんだね、と笑う。

 うまくなろうとか、そういうことは思ってなくてね。
 うん。
 すこしでも楽しんでできれば、いいなと思って。
 うん。それがいちばんだから。

いっぱい写真、撮りなよ。と言ってくれたのが、忘れられないです。



そのあと父は、いまはもうない風景のことなど話していました。
かつて家の近くを流れていたちいさな川のこと。そこで馬(農耕用に馬を飼っていた)を洗っていたこと。神社にあるおおきなケヤキの木に空いていた洞のこと、かつて生えていた立派なサルノコシカケ。神社の石段を、竹馬でのぼったこと。

目に映る風景には見えてこない、そういう風景がたくさんあって、それはきっと歳を重ねるごとに増えていって、ここにある風景と、かつてあった風景、そういうものが重なった風景を、人は見ている気がします。
歳を重ねるということは、重なる風景の増えてゆくことで、そうしていくつも重なった風景の重層性を思うと、歳を重ねてゆくことの深みを感じたりします。

神社に生えた樹齢四百年のケヤキからは、どんな風景が見えているのだろう。



そんなことを思った、1月でした。
日々を重ねること、楽しんでゆきたいと思います。
あらためて、今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。


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