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うたたね

寝てしまう。
午後、光がだんだん和らいでくるころ、ぼうっとしてくる。
なにもすることがない日はだいたい本を読んでいて、ちょうどその時間あたり、ふわっとしてくる。

昔からそうだった。

実家で暮らしていたとき、とくべつすることがない日はひとりで本を読んでいた。縁側だったり畳の間だったり、自分の部屋だったり、場所はどこだとしても午後はたいていしずかで、人の声もしない、やわらかい光だけが窓から入ってくる。

田舎家はだいたいの戸や窓が開けっぱなしで、風がよく抜けた。山からすべりおちて田をわたる風が、おおきく開いた窓から縁側へと吹きすぎてゆく。
読んでいたはずの言葉がひらひらほどけて流れていって体がゆるんで気がつくと眠りに落ちている。ゆっくりはじまった夢にひたっているその間も風が肌を撫でてゆくので、すこしずつ腕が冷えてゆく。


眠りに入る傾斜が人より緩やかなんじゃないかなと思うときがある。
起きているとわかっているのに、目は本の文字を追っているのに、うとうとしはじめる実感がわくそのまえに、ぜんぜん知らない人の声とか、ことばとかが聴こえる。
夢みたいな映像が見えるときも。でもふっと、いや、いま起きてる、と思って意識が戻る。でもまた声が聴こえて、よくわからない印象が見えて、なにかの感覚がひろがってゆき、気がつくとそれは夢で、もう起きていたことなんて忘れていて、目のまえにひろがる世界をたゆたっていると、あ、と思ったときには目が覚めて、それが夢だったとわかり、自分が眠っていたことに気づく。
そして漠然とした夢の感覚がまだ体に残ったまま、視界だけが現実のようすをぼんやりとらえている。
夢で聴こえたことや肌にふれたもの、味わった感覚はまだそこにあるけれど、しだいに引いていって、だんだん、だんだん忘れてしまう。



実家にいたころ自分の部屋で午後眠ってしまったとき、目が覚めると夕方に近い時間だったりして、光は淡くてとてもしずかで、だれの声もしなかった。
さっき見た夢にまだ半分つかったまま、つめたい腕を投げだしてぼんやり横になっている。
家の裏手は神社で大きなけやきの木が生えていて、私の部屋はちょうど木が大きく伸ばした梢の下にあたる。ほとんど木蔭で眠っているようなかたちになる。けやきの木の下、梢に抱かれるように眠る。窓の外はいちめんけやきの緑の葉。何千も何万もあるようなちいさい葉がさわさわゆれる葉擦れの音がして、波の音みたいだった。

さっきまでつかっていた夢の、海のようなひろがりや豊かさを体がわずかに覚えていて、でもそれが遠ざかってゆく感じがする。うたたねで見る夢はいつも全き感じでそこにはすべてがあって、たぶん記憶や出来事や時間、昔もこれからも、ありとあらゆるものがあるからそこにいるあいだはぜんぶを知っている感じがする。
あ、そうだったんだ、それでよかったんだ、そんな気がしたのに目が覚めるとなにがわかっていたのかだんだんわからなくなってゆく。ふれていたものが遠ざかっていって、失ってゆく感覚だけあって、夕方目を覚ますといつも悲しかった。
さっきまで泳いでいたあたたかい海から浜辺に打ち寄せられて、波打ち際で横たわっている感じ。
かろうじて足にだけ波が寄せたり引いたりして、でもしだいに引いていって、いつまでもそこにいるわけにはいかないので、私は陸に戻らないといけない。


うたたねから覚めるとき、いつもそんな感じがする。
ほんとうは魚だったのに。もうそういう生きかたはできないから立ち上がって陸に行かないと、みたいな。
漠然と、いつも悲しい。


人生でいちどだけ溺れたときがあって、そのことをよく覚えている。
小学校に上がるまえくらいの、ごく幼いときだった。
家族とプールで遊んでいて、私は浮き輪につかまってゆらゆらしていたのだけれど、ふいに、どぷん、といった。

水のなかは小さな泡がくるくるしながらのぼっていって、光が上からこぼれてくる。いちめん青いなかに白い光がきらきらして、しゃぼん玉みたいに泡はゆらいで、あんまりきれいで、ずっと見ていた。
なんてきれいなんだろう、まばたきするのも忘れるくらい見入っていた。呼吸のことなんてもっと忘れていた。苦しさもいっさい感じなかった。

気づいた父が片腕で私を引き上げて、水からざばーっと体が持ち上がったとき、ずいぶん父の体が大きく歪んで見えたし、空気の色味が変に思えた。そして水からあがったあと、息が苦しくなって胸が痛み、そこから長くつづく頭痛にも苦しめられた。
陸のほうがつらい、と思った。



水のなかにいたときの感覚が残っているのかもしれない。
溺れたときだけでなく、生まれるまえの羊水のなかや、あるいは人間のかたちをとるまえのこと。海につかっていた感じが懐かしくて夢にひたってしまうのかもしれない。でもそこはずっと住んでいられる場所ではないのでかならず陸に戻らないといけない。
波打ち際で横になったまま水の引いていく感覚は悲しい。でも悲しさも結局はうすれる。

夢を見るまえとあとで、自分の体はなんにも変わっていないように見える。冷えた腕、本に挟んだ指、重たいまぶた。世界も変わっていない。陽がすこし傾いただけで、光は淡く、けやきの葉は潮騒みたいな音をならす。

本の、よくわからなかった箇所はよくわからないままで、現実の問題は、ほぐれていない。
でもそれにふれる自分の状態は確実に変わっている。物事をどうにかしようとした心の凝りはしぜんに溶けている。波に身をゆだねるみたいに、ままならなさをそのまま受けとめて、なにかを手放せる状態になっている。
そしてだいたいにおいて、なるようにしかならないことは、なるようになるし、たぶんそうなってゆくことをずいぶん前から知っている。流れつく場所を楽しみながら、たんたんと生きていくだけだ。



ふつうに陸を歩いて生きていると、ときどき波打ち際にいるような人に会うことがある。
陸を生きながらはんぶん海につかったまま、みたいな人に。私はそこまで思い切れないので海の記憶は浜辺に置いておいて、陸の人として歩くけれど、なにかをずっと保ったままの人は、すこしこわい、でも、なんとなく惹かれてしまう。羨ましいな、とも思う。
私もときどき、やっぱり帰りたい。でもずっとはいられない。


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