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禅僧の正法眼蔵講話「摩訶般若波羅蜜」メモ書き4日目

理解できない話、意味がよく分からないやり取りの例えとして「禅問答みたいだ」と一般的に使われる場合があります。

しかし実際の所、禅問答を含めて、仏教の話には、そこに「伝えたい大事な事」があります。仮にここではその大事な事を「般若(智慧)」と呼ぶ事にしましょう。

空気のように学ぶ

例えば、自分の大切な気持ちを相手に伝えようと言葉にします。しかしこの気持ちの全てを言葉にすることはできません。何かを言えば、何かが欠けているような気がします。

おそらく言葉の全てを尽くしても、その気持ちそのものを表現することはできないでしょう。形にしようとしても、それはその気持ちそのものではありません。

仏法も同じく、いくら言葉にしても、その言葉自体が般若(智慧)にはならないのです。

空気はそこにありますが、それはつかむことも、見ることもできません。指し示すこともできません。般若(智慧)を学ぶ際は、この空気のように学ぶべきなのです。

風鈴はそれ全身で風と一体となり、音色を奏でる

では空気のようにつかむことも、見ることもできない、指し示す事ができないのであれば、私達は知りようがないのでしょうか?

そんなことはありません。

例えば、風鈴はそれ全身で風を受け取り、音色を奏でています。東から風が吹けば、その音色を、西から風が吹けば、また音色を奏でる。

風鈴はそれこそ空中にぶら下がり、風(空気の流れ)と一体となって、空気の音色を奏でているのです。風鈴もそれが全身が口と舌のように、空気(「般若(智慧)」)を説いているわけです。

ただし、東から吹いた風で音色がなったとしましょう。だから「東に空気「般若(智慧)」があるのだ」と思ったら、それは違います。

いえ、確かに東にも空気(「般若(智慧)」)はあるので間違ってはいませんが、それで東に注目して東の方角に「般若(智慧)」があると考えるのは間違いです。

こうなると「違うけど間違っていない」「間違っていないけど、間違っている」と上記で文章にしたように、否定と肯定を言葉にすることも難しくなってくるでしょう。

否定と肯定の話で言えば、否定ということを本当の意味で知った時には、100%物事を否定することはできなくなるでしょう。肯定ということを本当の意味で知った時は、100%物事を肯定することはできなくなるでしょう。

だからこそ、以下のようなキンスカの木の話も生まれてきたのでしょうね。


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