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禅僧の「増一阿含経31-5」講話メモ書き4日目

解説すると分けてしまうが、話としては分けられない。

増一阿含経31-5の講話も本日で最後。

前半部はこちらになり、精進の話がメインテーマになる。

後半部はこちらで、「幸福」とは何かということが、一応テーマになるだろうか。

こうして前半部と後半部にわけることができるが、このお経が一つの話としてまとめらえていることを考えると、前半と後半の話は、切っても切り離せない。

特に後半部の「幸福」について触れる際に、前半部の所が大事なってくる。

全体を通して改めてこの話を訳したのがこちら。

そして今回の講話では、これらの記事や動画であまり上手く触れられなかった補足説明をするような形になったと思う。

幸福とは何だろうか?


今回は、後半部の最後の部分に触れた。針に糸が通せないアヌルッダの為にお釈迦さんが針を通してくれるシーンがあるが、ここで「幸福とは何か?」ということを考えさせられる。

満足する。あれやこれやと何かを為す時の満足感。これが幸福だろうか?

あるいは、ひたすらストイックに物事を成し遂げる。その一つを成し遂げた時が幸福なのだろうか?

きっとこういう風に幸福とは何かと考えてしまうと、この話はあまり響かない話になってしまう。

私は日頃の事(例えば、好きな物を食べたい)で、満足することに幸せを感じることもあるだろうし、ストイックに(他の事は我慢して)、自分にとって大きなことを成し遂げた時に幸せを感じることはあると思う。

だからそれもきっとその時の幸福なんだろう。

しかし「それが幸福なんだよ」」と言った瞬間に、きっとそれは幸福というものを示さなくなってしまう。

満足したり、ストイックの物事を成し遂げたり、幸福という事はそういう言葉に縛られない。

言葉に縛られないからこそ、こうして言葉(文章)にすることも難しいのだろう。

そしてそこの所を踏まえた上で、お釈迦さんとアヌルッダは話をしていると考えると、もっとこの話に深みを感じられるはずだ。

頑張る事と無理する事の違いは何だろうか?

休む事と怠ける事の違いは何だろうか?

満足する事と欲求を満たす事の違いは何だろうか?

目の前の事に一生懸命打ち込む事と目の前の事だけに集中して他の事を我慢する事の違いは何だろうか?

その「何」を言葉にすることは難しい。


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