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禅僧の正法眼蔵講話「話摩訶般若波羅蜜」メモ書き3日目

①「これが何かわかりますか?」

これが本日、冒頭に皆さんにした質問です。

「何が?」
「どれが?」
「???」

と皆がこのような反応になりました。

そこでペンを用意します。机の上に置きました。ここにペンが一本有ります。

もう一本ペンを用意します。机の上にペンが二本有ります。
もう一本ペンを用意します。これで三本、机の上にペンが有ります。
もう一本ペンを用意しました。これで四本、机の上に有ります。

1,2,3,4……

皆、ペンが何本有るか、理解することができました。

こうして、ペンが「有る」ということを改めて知ることができます。

皆さんが「有る」を理解した後は、今度は一本ずつペンを机の上から取っていきました。

4、3,2,1……

最後の一本を取った後、再び問いました。

②「これが何かわかりますか?」

0本になったのです。
そして、これが「無い」ということだと、皆さん理解することができました。

冒頭①「これが何かわかりますか?」とペンのくだりが終わった後の②「これが何かわかりますか?」は同じ問いですが、皆さんの理解が変わりました。

普段何気なく使っている言葉「有」と「無」ですが、私達はどのようにそれを理解しているのでしょうか?

有とは具体的にどういうことなのでしょうか?
無とは具体的にどういうことなのでしょうか?

言葉の上の理解ではなく、実感として考えてみてください。


本日の講話会はこちらの部分についてお話しました。

釈(しゃ)迦(か)牟(む)尼(に)如(にょ)来(らい)の会中(えちゅう)に一(ひとり)の苾蒭(びつすう)あり、竊(ひそ)かに是(こ)の念(ねん)をなさく、我(わ)れ甚(じん)深(じん)般(はん)若(にゃ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)多(た)を敬(きょう)礼(らい)すべし。此(こ)の中(なか)に諸(しょ)法(ほう)の生(しょう)滅(めつ)無(な)しと雖(いえど)も、而(しか)も戒(かい)蘊(うん)・定(じょう)蘊(うん)・慧(え)蘊(うん)・解(げ)脱(だつ)蘊(うん)・解(げ)脱(だつ)知(ち)見(けん)蘊(うん)の施(し)設(せつ)可(か)得(とく)有(あ)り、また預(よ)流(る)果(か)・一(いち)来(らい)果(か)・不(ふ)還(げん)果(か)・阿(あ)羅(ら)漢(かん)果(か)の施(し)設(せつ)可(か)得(とく)有(あ)り、また独(どく)覚(かく)菩(ぼ)提(だい)の施(し)設(せつ)可(か)得(とく)有(あ)り、また無(む)上(じょう)正(しょう)等(とう)菩(ぼ)提(だい)の施(し)設(せつ)可(か)得(とく)有(あ)り、また仏(ぶっ)法(ぽう)僧(そう)宝(ぼう)の施(し)設(せつ)可(か)得(とく)有(あ)り、また転(てん)妙(みょう)法(ぼう)輪(りん)・度(ど)有(う)情(じょう)類(るい)の施(し)設(せつ)可(か)得(とく)有(あ)り。仏(ほとけ)、其(そ)の念(ねん)を知(しろしめ)して、苾蒭(びつすう)に告(つ)げて言(のたまは)く、是(かく)の如(ごと)し、是(かく)の如(ごと)し。甚(じん)深(じん)般(はん)若(にゃ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)は、微(み)妙(みょう)なり、難(なん)測(しき)なり。
而(し)今(きん)の一(いち)苾蒭(びつすう)の竊(せつ)作(さ)念(ねん)は、諸法(しょほう)を敬礼(きょうらい)するところに、雖(すい)無(む)生(しょう)滅(めつ)の般(はん)若(にゃ)、これ敬礼(きょうらい)なり。この正(しょう)等(とう)敬(きょう)礼(らい)時(じ)、ちなみに施(し)設(せつ)可(か)得(とく)の般(はん)若(にゃ)現(げん)成(じょう)せり。いはゆる戒(かい)定(じょう)慧(え)乃(ない)至(し)度(ど)有(う)情(じょう)類(るい)等(とう)なり、これを無(む)といふ。無(む)の施設(しせつ)、かくのごとく可(か)得(とく)なり。これ甚(じん)深(じん)微(み)妙(みょう)難(なん)測(しき)の般(はん)若(にゃ)波(は)羅(ら)蜜(みつ)なり。

今回は「言葉を極力使わずに無を説明するにはどうする?」という観点から話をしました。

私達は普段から無という言葉を使っていますが、具体的な意味で「無」とは何なのでしょうか?

おそらく、②より何の前置きも無かった①の方が「無」の説明に近いはずです。だって何の前置きも無いのですから。純粋な意味で「無」を説明しようとしたら、何もしてはいけないのです。

しかしそれでは伝わりません。わけがわかりません。

だからまずは目の前に広がっている色々と「有」る物から、「有」について説明をしました。そしてそれが「無」の説明へとつながり、理解することができました。

「無」を伝えようとするならば、「有」の理解が欠かせません。「無」と「有」は切っても切り離せません。

そしてまた①の時、「どれの事を言っているのですか?」という返事がとても印象的でした。

全く前置きが「無」かったからこそ、質問された側は、自分の目の前の「有」り様の一体何を指しているのかと考えたわけです。

「無」という意味により近い時には、目の前に「有」るものを見ているのです。「無」と「有」は切っても切り離せません。


極力言葉を使わずに行った事を言葉で表現するのはとても難しいことですね。中途半端ですが、メモはここまでにしておきます。





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