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彗星

 本を読んで知った気になっている言葉が幾つかある。

 例えば『彗星』

 その言葉が意味する景色を、私は文学的にしか知らない。絵の具を伸ばしたような色めきも、煌めきを零したような淡い輝きも、現実に見たことはない。

「目を瞑って。キスをするから。それからゆっくり目を開けよう」

 それが彼とした初めてのキスだった。
 恋はゆっくりと膨らんで、やがて温かな唇の感触と共に私の元に舞い落ちる。名残り惜しむように脳裏に残る、眩ゆく流れる幸福な時間。

 まるで彗星みたいだった。煌めいては、いつまでも、私の心を奪い続ける。





 恋愛小説が嫌いです。

 ハッピーエンドか切なさを強いられている気がするから。

 そう話したのは彼と付き合い始めた頃。まだ私たちはお互いの好きなものしか知らなかった。

 好きな人の好きなものはどれも素敵に見えるけど、その人の嫌いなものを自分が嫌いになる訳じゃない。彼の言葉はいつも逞しさと共に私の耳に届いた。それだけで私の嫌いは簡単にその棘を和らげる。人は幸福に足を踏み入れた途端、自分に対して誰よりも優しくなることが出来るのかもしれない。

 彼は私のあまり知らない小説を読んだ。温かさの残る、小さな起承転結の物語。
 ヒロインが少しだけ前向きに生きようとする話だよ。
 私は彼の口から語られるその物語を想像する。私を主人公に置き換えてしまいたいくらいの柔らかな物語。彼と一緒にいるとどれだけ小さな幸福にも気が付けるような気がした。初めてキスをしたのは彼の家で、本棚には私の知っている本とこれから私が知ることになるかもしれない本が所狭しと並んでいた。目を瞑る直前に、その内の一つの題名が目に入った。

『彗星』

 この世に生まれてから今まで、もしかすると一度も口にしたことがないかもしれない、綺麗な言葉。彼の甘い吐息が近づいて、ゆっくりと唇が触れた。小説の中の最も美しい部分を切り取ったみたいだった。


 彼の時間が私の時間と重なるに連れ、私たちは少しずつ大人になった気がした。私は彼の無邪気な顔を沢山写真に収めて、彼は私との時間を可能な限り巧みな言葉を用いて表現した。
 彼と手を繋いで、私たち二人だけの街を悠々と歩いた。クリスマスには小さなレストランで赤ワインを飲んで、春には都内の大きな公園でコーヒーと共に、私たちの前に訪れる細やかな幸福について話した。夏には夕暮れを塗り潰していく夜を二人で見上げ、秋にはお互いの誕生日を祝う。そしてまたクリスマスが来る頃、私たちは一つの部屋で一つの将来を描き始めた。同棲という言葉も、小説の中でしか知らなかったかもしれない。私がそう言うと、彼はゆっくりと私を抱きしめた。季節は春を待つばかりで、夜は静かに更けてゆく。時間と共に大人になって、恋はやがて愛になっていった。

 同棲を始めたアパートは四階建てで、私たちが住んでいたのは西日がよく差し込む部屋だった。私と彼の部屋の他に小さなリビングも確保できた空間は、いつまでも続いて欲しい穏やかさを持って私たちを迎え入れてくれた気がした。彼の部屋の角には例の本棚がすっと置かれていて、その中には『彗星』の文字が煌びやかに輝いていた。

 彼は私との暮らしを通じて、またはこの部屋を通じて沢山の事を語ろうとした。それは取り留めのない話だったり、見逃してしまうような些細な喜びについてだったりした。私は少しずつ慣れた手つきで二人分の食事を用意しながらそれを聞いた。彼の話は面白くて、彼の見ている世界はとても綺麗なのだろうなと思った。

 夜になると月灯かりがベランダに降り注いでいて、彼はとても遠くを見た。真っすぐな視線の先にはいつも彼の心を奪うこの世界の美しさがあって、まるで彼は小説家みたいだなと思った。少し丸まった彼の背中に向かって、私はスマートフォンのシャッターを切った。振り返った彼。ゆっくり笑って、静かに月は満ちてゆく。





「終わったよ」


 彼の声に反応して、私は画面を暗転させた。振り返るともうほとんどの荷物は段ボールに詰め終えられていて、窓から差し込む西日が剝き出しになったフローリングを橙色に照らしていた。彼の部屋にあった本は大きな段ボール一つに纏められていて、私と彼の時間は緩やかにその枝先を分け始めている。


「あ」


 私は段ボールの中にあった一冊の本を手に取ってみた。美しい題名はいつも煌びやかに私の目を惹いた。


「これ、貰ってもいい?」
「いいよ」


 彼はゆっくりと笑ってそういう。私もそれに返すように、これまでの感謝と共にありがとうと告げた。


『彗星』


 小説の中でしか聞いたことがない言葉。その美しさは彼の目に映ったことはあるだろうか。瞬く間に流れてゆく幸福と、それを名残惜しむようにいつまでも続く夜。


 まるで恋愛小説みたいだった。煌めいては、いつまでも、私の胸に残り続ける。

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