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感性レベルでは、男と女の分け方は無意味〈日めくり橋本治〉

「人間の肉体、医学とか戸籍の方では、『男』と『女』かもしれないけど、感性ってことになってくると、そういう分類をした人間は一人もいないからなァっていうのもあってね。感性レベルでいくと、男と女っていう分け方は、無意味のような気がするのね」─橋本治『ぼくたちの近代史』(1988年)

性に対する見方の解像度が上がりつつあるいま、上に引用した言葉は目新しいものではないように思えます。
しかし、この本が刊行されたのは1988年、もとになった講演が行われたのは、前年の1987年でした。
橋本治の言うことを「そうだよね」と聞く人は、今よりもずっと少なかったはずです。私の周りの橋本治と同世代の人たちを思い浮かべても、上のような考え方を前提にしている人は今でも少ないように感じます。

これまでのおよそ30年の月日の間で、LGBTQ+やその他さまざまなかたちの“マイノリティ”に対する認知度は高まってきました。でも、それは二極化が進んでいるだけではないかと思うことがあります。それくらい、変わらない人は全然変わらないということがあるのです。自分のなかの偏見や差別意識に無自覚な人はどこまでも無自覚で、人を傷つけていることにすら無自覚であったりとか。
社会の一部でマイノリティがオープンになって徐々にマジョリティに近づくことはあっても、孤立したマイノリティは孤立したままという現実は必ずどこかにあります。

自分自身が受け入れられる環境が周囲にないと感じて孤立していたり、自分を偽っている気がしてモヤモヤしたものを抱えている人にとって重要なのは、自分に直接関わりのない“世の中”が開かれていくことと同時に、自分の目の前に壁のように立ち塞がる身近な人の偏見や無理解がなくなっていくことです。

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