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妄想とは「自分が必要とする他人」の別名〈日めくり橋本治〉

「多くの人は、現実と妄想の境目を明確に理解している。愚かとは、その境目を理解出来ないでいることで、現実と妄想の境目を理解する人間は、自分と他人との境目も理解する。子供というのは、自分と他人の境目を理解出来ず、それゆえにこそ、肥大化した自分の妄想に巻き込まれてしまう。教育というものは、本来、自分と他人との境目を理解させることから始まる。

三島由紀夫は昔の人だから、自分と他人との境目を十分に理解している。昔の社会は、子供が妄想だけを肥大させて生きることを許さなかった。しかし今では、自分の妄想を肥大させることを、『自由』と勘違いしている人が多くなった。これが許されると、『自分一人が人間で、後は虫けら同然』というとんでもない世界観が生まれる。未成年者のとんでもない犯罪事件の増大はその結果だろうが、しかしいくら時代が変わっても、『自分の妄想だけを肥大させて現実社会に生きる』なんてことは、そうそう出来やしない。それをしていれば、当人がおかしくなる。それをせざるをえないような不幸な状況があればこそ、仕方なしに妄想ばかりが肥大してしまうというのが本当だろう。

妄想を肥大させざるをえない不幸な状況というのは、すなわち『孤独』という状況で、自分と他人との境目があまりにも強固にありすぎると、他人が見えなくなって、妄想だけが肥大する。それが『孤独』という状況で、であるならばすなわち、妄想とは『自分が必要とする他人』の別名であり、『人というものは他人を求めずにはいられないものだ』ということにしかならない。
いたってシンプルな事実だが、しかし、こういうことさえも認めたがらない人は多い。平気で『そうかな....?』などと言ってしまう。『自分が他人を求めずにはいられない』という事実を素直に認められないのは、『他人との間の溝』が人の孤独を作って、その溝を埋める作業がいかに難しいかということの証明でしかなくて、人というものは、困難を認めたがらないものなのだ。しかし、いくらそれが難しいからといって、『人というものは他人を求めずにはいられないものだ』という事実を斥けるのは間違いだ。
前章で、『人間は自分の現実が壁にぶつかると性的逸脱に走る』と言った。性欲というものは『人間の中心にある無責任なもの』であり、と同時に『未来を提示するもの』でもあるから、性欲というものは、意志とか理性とかいう質の思考を必要とし要求するのだ、ということも。人間はそんなもので、自分の現実が壁にぶつかり、人との間の溝が深くなってしまったら、その孤独を癒すために、『妄想』という名の他人を求めざるをえなくなる。性欲というものは、妄想という手先を強化して、『自分は独り立ち出来る』と思いたがる暴君でもある。」
──橋本治『失楽園の向こう側』

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