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『ひらがな日本美術史4』─俵屋宗達と橋本治

橋本治『ひらがな日本美術史4』は謎の人物・俵屋宗達から始まる。

「画家としての履歴が明白にされていても不思議はないような位置にいながら、しかし俵屋宗達は、生没年をはじめとする一切が不明のままになっている“謎の画家”なのである。その理由は、おそらく、彼が絵師ならぬ『絵屋』出身の画家だったことと関係があるだろう。」
「『絵屋』というのは、装飾用の絵を描く工房である。絵師というのが上つ方相手に存在する職業なら、絵屋はその民間版だろう。」
「絵師というものは、名声を得て時の政府の仕事を一手に引き受けるようになると『御用絵師』になる。それがなければただの『絵師』である。絵師の有名と無名、あるいは絵師の政治権力はそのようにして生まれるのだろうが、絵師ならぬ『絵屋』は、そういうものとは無関係なところにいる。有名な画家と無名な画家がいて、それとは無関係なところに、有名なマンガ家とかイラストレーターがいる─というようなもんである。」

橋本治『ひらがな日本美術史4』

出自が不明なのは、「絵屋」に属する民間人だったから。では没年が不詳なのはなぜなんだろう?

「昔の人で生年が不詳なら、たいした家の生まれではなく、たいした生まれ方もしなかったということである。没年が不詳なら、パッとしないままその人生を終わったということにもなる。しかし、俵屋宗達は、おそらくパッとしないまま一生を終えた人物ではない。なにしろ彼は、『朝廷から法橋の称号をもらう』というところまで行っているからだ。」
「俵屋宗達は法橋になった。その弟だか息子だか弟子の宗雪も法橋になった。しかし、宗雪は宗達に比べて尋常な画家だった。」「法橋になった宗雪は、おそらくそこそこのままで終わった。『そこそこ』の前にいる『尋常じゃない』は、きっとそんなに大したものだとは思われないだろう。そして、宗達・宗雪が所属していたはずの『絵屋』という職業も、やがて消滅する。」

橋本治『ひらがな日本美術史4』

俵屋宗達の絵の実力は確固として評価されたにも関わらず、忘れられ、一時は歴史から抹殺されてしまったのはなぜか。それはその時代の“見る側”の問題でもある。

「人というものは、もしかしたら、“すぐれた技”に憧れる前に、“輝けるポジション”というものに憧れるのかもしれない。ある種の人にとって、“技”よりも“社会的位置”の方が、ずっと分かりやすいのだ。」

橋本治『ひらがな日本美術史4』

宗達・宗雪のあとに登場した“琳派”の光琳が絶大なる人気を誇り、宗達は忘れられていく。宗達の《風神雷神図屏風》は光琳も模写をしているが、当時の“見る側”の人間は、宗達の《風神雷神図屏風》と光琳のそれとを比べて、光琳のほうを優れていると評価していた。光琳の社会的位置が高かったからだ。
宗達は本阿弥光悦の書に下絵を描いた仕事も残っているが、その絵すら「光悦が描いたもの」と誤解され、宗達は完全に抹消された存在になる。その宗達が復活するのは大正時代になってからである。

「私が俵屋宗達の絵を『尋常ではない』と言うのは、もちろん『異常だ』という意味ではない。『尋常のレベルを越えている』という意味である。」
「絵屋は、『町で扇子に絵を描いているやつ』である。町の似顔絵描きの中に天才がいたって、その天才は、『天才』と呼ばれなければ、広く世に知られない。多くの人は、人が『天才だ』と言わなけりゃ、その天才を理解しないのである。『これが好きだ』は分かっていても、その自分の好きなものを『いい』と言い切れる人は、そうそういない。『天才だ』を呑み込んでも、『その天才の作品』を理解するかどうかは分からない。人は、『尋常じゃないもの』より、『尋常にとどまったもの』をより多く理解し、評価するのだ。」

橋本治『ひらがな日本美術史4』

私は俵屋宗達を書いた章が橋本治のことを書いているような気がして仕方がなかった。橋本治本人が聞いたら否定されそうだけど。

「俵屋宗達の歴史上の扱いは、どうやらそんなものでもあったらしいのである。つまりどういうことかと言うと、『変わっている』とか『よく分からない』とか『あんまりたいしたことない』とか思われながらも、一方には『すごい』と思う人間がいてひそかな尊敬を集める─である。俵屋宗達は、長い間そんな画家だった。」

橋本治『ひらがな日本美術史4』

今でこそ、俵屋宗達は日本美術界最高の画家と評されている(美術ライターの橋本麻里さんによれば、この考え方も“イズム”の一つである)けれど、大正時代までの250年ばかり忘れられた存在になっていた。
橋本治という作家も、日本文壇界の中では異端の存在でありつづけた。そもそものデビューからして“中間小説”誌という位置付けの曖昧な場所であり、エンタメ小説と勘違いされてまともに受け止められず、だからこそ日本の大多数の“真面目な”人からは読まれもしないし当然ながら評価もされない。その後あまりにも多岐にわたる仕事を遺したがゆえにどう位置付けたらいいのか「よくわからない」と思われたまま亡くなったのが橋本治だ。
宗達のその“技”が埋もれていたのが受け手の問題なのだとすれば、再評価して歴史にきちんと位置付けられるのも受け手次第だ。

本阿弥光悦の書に宗達が下絵を描いた作品を扱う章「勝つもの負けるもの」で、橋本治は自らを「人に挿絵を依頼する“文章書き”」として書いている。しかし、橋本治はもともとイラストレイターとして挿絵の仕事もしていたのだから、文章書きとしてだけでこの文章を書いていたとは思えない。

「本阿弥光悦は、自分の書かんとする書の雰囲気をさらにイメージ・アップするものとして、この宗達の下絵をかなり気に入ったことではありましょう。しかし、それは立場を変えてしまえば、『光悦に書を書かせる宗達は、まだ書かれていない光悦の書の存在を前提にして、その書が自分の描いた金銀泥絵の一部になってしまうような下絵を、既に設計していた』ということでもある。そういうことに関しては、『書の名人である本阿弥光悦様のご手跡を拝見する』とやっていた昔の人達より、『なに書いてあるんだか分かんねーなー、でもこの絵はすごいなー』と思う、無教養に近い現代の我々の方が簡単に分かってしまうかもしれない。『書を自分の作品の一部として取り込んでしまうような絵』と、『それを描く画家』は、ここに立派に存在しているんですね。なんて恐ろしい画家だろうと、人に挿絵を依頼する立場の“文章書き”である私は思いますね。
光悦が書を書くその以前、宗達は『古今和歌集・雑歌上』を読み込んでいる。『この“流れ”なら、俺はどうやって表現するかな?』を考えている。宗達下絵&光悦書による和歌巻は、『光悦の書く文章に宗達が挿絵を描く』じゃないんですね。『その遠い昔に書かれた“和歌集”という台本を読んだ、俵屋宗達という舞台装置家が、本阿弥光悦という主演役者の着る衣装の様子まで頭に入れて、完璧にその舞台を構築してしまった』なんですね。
本阿弥光悦は、ただ踊るだけ。観客の拍手は、主演のスターに集まる。しかし、観客はなにに感動したか?『主演のスター』か?それとも、『そのスターのいる舞台全体の素晴らしさ』か?」

橋本治『ひらがな日本美術史4』


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